#195 西行と賢治が見つめたその先【宮沢賢治とシャーマンと山 その68】
(続き)
「宮沢賢治は何をしようとしていたのか?」
と、時々考えることがある。
現代では、文学者としても知られているが、おそらく職業作家になろうとしていた訳ではないだろう。賢治自身も、自分は作家になろうとしているわけではない、と語っていたような記憶もある。
また、西行の歌には、同時代の歌が持っていた技巧的な側面が薄いという事を読んだ記憶がある。西行の歌は、現代に生きる私が素人目で読んでみても、歌の前提条件となっている知識や背景を気にすることなしに理解できる、わかり易い歌であると感じる。
西行自身も、和歌のサロン的な世界とは、一定の距離を置いていたようであり、歌を通じて俗世的な地位を高める、といった野心からは遠かったのかもしれない。
また、僧でありながら宗教の教団内での地位や名誉の争いからは距離を置き、それでいて、様々な信仰に触れ続けたということから、信仰に対する飽くなき興味のようなものが感じられる。一つの宗教の枠を超え、様々な宗教を習合しながら、西行なりの信仰を、歌という形で表し続けたようにも見える。
賢治もまた、個々の宗教を超えた賢治なりの信仰を、文学作品という形で昇華し続けた人物にも思えてくる。
このような賢治と西行の類似性が、偶然なのか、あるいは気のせいなのかは分からない。だが、二人を比較しながら考えると、腑に落ちる点も多くある。
賢治の作品が約100年、西行の歌が約1000年もの間、未だに現代的な共感性を持って感じられるというのにも不思議な縁を感じるし、賢治や西行と同時代の作家や歌人の作品の多くが、今では忘れ去られた過去のものであるのに比べ、二人の作品が現代的な魅力を放っているという事にも、何か関係があるのかもしれない。
西行が桜舞う季節に亡くなった時、かつて西行が
「ねがはくは 花のもとにて 春死なん 二月の 望月のころ」
と歌ったことを都の人々は思い出し、感動に包まれたという。この歌は最も有名な西行の歌の一首であろうし、令和の現代に目にしても、何か胸に迫るものがある。
ちなみに、西行の晩年、当時の一流歌人であった藤原俊成に自らの歌の勝ち負けの判定を依頼した「御裳濯河歌合」の中で、この歌は「勝ち」ではなく「引き分け」とされており、絶対的に優れた歌という訳ではないようだ。歌の技巧とは別に、人の心を打つ不思議な魅力を持った歌ということであろうか。
賢治の詩「雨ニモマケズ」も、元々は賢治の手帳のメモだったが、賢治の死後の会合の中で発見され、参加者に感動を呼び起こしたことにより、その後、広く知られることとなったと記憶している。手帳には、詩の最後に「南妙法蓮華経」などといった文字の曼荼羅が書かれており、その文字まで含めて一つの作品なのか?また、そもそも「雨ニモマケズ」自体が作品と呼べるのか?よく分からない面もあるが、そういった事には関係なく、多くの人々の心を打つ、不思議な魅力を持つ作品であることは間違いないだろう。
長い間、人々の心を打ち続ける西行と賢治の作品に、どんな秘密があるのかは分からない。ただ、二人が信仰を追い求めた結果として表現された作品であることが、大きく影響しているように思えてならない。
【写真は、「御裳濯河歌合」】
(続く)
2024(令和6)年10月26日(土)