トキメキという財産
ブックオフで買って、ブックオフで売って、その繰り返し。また新しい物語が我が家にやってきました。たまたま立ち読みで出会った作家さんの、可能な限りまとめ買い(100円文庫中心)。その世界にどっぷり入って、思考パターンや感情のヒダの凹凸を、その手触りを自分の世界のように味わいつつ、その世界観で現実の自分の世界を俯瞰してみるのが、私の趣味的読書の醍醐味です。ズラリと並ぶ、未知の文庫の背表紙に、トキメキしか生まれません。
そして我が家を旅立つ物語達、ハウツー本やビジネス書や新書、マンガ達、血となり肉になってくれた本達を送り出します。ブックオフから来て、ブックオフへ。キャッチアンド、数年を隔てたリリース。ありがとう、また誰かの支えやエンタメになってね、とパラパラめくって話しかけるのです。(心の中でね)
キャッチアンドリリースとは言っても、一冊100〜500円×ことの数十冊で迎え入れた本達が旅立つときには、まとめて数百円にしかなりません。でも、その差額以上の財産が心に根をはっているのだから、お得以外の何者でもないと、私は感じています。図書館に行けばもっとお得だとは、わかっちゃいるけど、返すタイミングが決まっていて、追い立てられるように読むのが何だか勿体なくて、もっとズラーっと佇む背表紙を眺めてトキメキたかったりして、中々足が向きません。
前回のnoteから間が空いていますが、前回書いた内容を読み返して、ハッキリと自分の成長を感じました。まず、前回の段階でワチャワチャしていた、流しのDX対策iPad似顔絵はスムーズに、アナログとほぼ遜色なく歌いながら一連の流れとしてできるようになっています。クオリティはこれからどんどん上げて行きたいですが、仕事として一つの芸として成り立つレベルには動作の基盤が出来てきたように思います。
そして、新しい一歩のもう一歩目は、オリジナル曲を順調に増やして行けている事です。名曲のカバーという流しの伝統芸も大切ですが、ひとりの歌い手として、表現者として、オリジナルを求められる場面に遭遇するたび、絵や文章は、スラスラと表現したい事と動かす手がオートマティックに回線が繋がっているのに、歌となると『...........。』と沈黙していました。どうやれば良いのか、そもそも何が歌いたいのか、勿論オリジナルは欲しいけど、、何をどうしたいのか、イマイチ分かっていませんでした。
歌う事は誰かの真似だったり、再現だったり、聴きたい人の心の中を想像して、そこに寄り添ってみたり、あるいは自分の中に近い感情がある曲は、アレンジして自分の好きなように歌って悦に入ってみたり。でも、私の本当の感情感覚を自分の言葉で歌うという事は、どういう事なのか、さっぱり分かりませんでした。中学生の時から、散文詩はたくさん書いてきたし、文章としての詩は、たくさんストックがありましたが、それが歌に乗るという感覚が、何故かリンクしませんでした。朗読の方がしっくりくるかな、歌い上げるとか、気恥ずかしいし、なんか大袈裟でキモイ、みたいな。
小椋佳さんが、私のために描いて下さった歌は、本当にありがたく受け止め、大切に歌ってきました。私という女を小椋佳フィルターの視界に置いて、主人公として描いてくださった、新しい世界。本当の私ではなくても、全くの他者の世界ではない、不思議な世界でした。
私が私のオリジナル曲を生み出せるようになった大きなきっかけは、私が大元を作詞して、小椋佳さんが言葉をアレンジして曲を付けて下さった曲を歌い込んで見た事で、『本当に心にある事を歌に乗せる』という事は、こういう事か!と何かがポンッと開いたからです。俗に言うチャクラ的な何かでしょうか。詰まっていた管が、空気圧でポンッと通るようなニュアンスでした。
言葉の意味以上にメロディに乗せた時の感情の昇華、何とも言えない達成感が自分の中に起きるのだと、体感できた事により、歌の中の主人公として本当の私が感じる『私』を、そこに発見しました。遭難していた人を、発見して救助したような、そんな感覚でした。
書き溜めていた、詩をメロディに乗せやすい配列に直し、AメロBメロサビCメロなど歌にしやすい構成に直し、鼻歌を録音し、ここ一年ほどサポートしてくれているギターの方にコードを付けてもらって修正して、そんな作業が始まりました。そして、前回の11月14日誕生日Liveで、一曲目を初お披露目、つい先週の12月12日クリスマスLiveにて、二曲目を初お披露目、なんなら五色線だけで完全1人作業として作ったオリジナル三曲目も、まだ出来上がりきってないベータ版なのにも関わらず、早く聴いてもらいたくて、フライング初お披露目してしまいました。オリジナル曲の面白さに舞い上がって、調子に乗ってます。次回来年1月23日新年会Liveでは、また新しい五色線での新曲をフライング初お披露目しそうな勢いです。
セロトニン欠乏症気味なので、楽しいと満足するまで突っ走って壁に激突しがちです。でも、へこたれないので、死なない程度に猪突猛進して行こうと思います。
冒頭の読書の話とリンクして考えてみると、共感できる誰かの世界にどっぷり浸かり、誰かの価値観、感情、感覚に身を委ね、その世界で擬似的に生きる瞬間を味わうという趣味は、誰かの歌の世界に自分を重ねたり、再現したり、聴いている人に寄り添いながら歌ったりする事に似ているのではないかと、思いました。
絵や文章を書く事と、歌を歌う事は、私の中では別ジャンルの、隣り合った別世界でした。別の箱に入れられた何かが、テーブルの上に並んで鎮座しているような感じで、リンクしていませんでした。歌いながら絵を描くという、別の表現を二つ同時にパフォーマンスするという、摩訶不思議な事をやっているのにも関わらず。
自分の中にある実態のないもの(感覚)を、絵や文や音にする、ゼロから何かを生み出す『創作』と、既に実体としてあるものを解釈したりアレンジしたり色をつけたり統合したりして、新しい形として魅せる『表現』、その違いをヒシヒシ体感しています。
レッドブル並みに、翼を授かった気持ちです。翼を授かった事と、大空を羽ばたけるかどうかは、また別の話。作った歌が売れるとか売れないとか、聴いた人がいい歌だと感じるかどうかは、iPad似顔絵のクオリティを上げて行くのと同様、これから先の鍛錬にかかっています。
何よりも、楽しむ事を、楽しくて仕方がない今の気持ちを、この胸のトキメキを、それこそが、1番の財産である事を、忘れないようにしたいです。