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脱学校的人間(新編集版)〈77〉

 山本哲士は、社会的な価値の一元的な制度化を実現させるべく、その役割を具体的に担わされているところの、当の学校教育の背後に組み込まれていると思しき「影のカリキュラム」なるものについて、イリッチがサタディ・レビュー誌に掲載した『学校化への分水嶺設定(Alternatives to schooling)』と題した論文において、「(一)学校を通してのみ人びとは社会的メンバーとして認められる、(二)学校の外で教えられたことは価値valueがない、(三)学校の外で学んだことは価値worthがない」というように、その要諦が簡潔に解き明かされているとしている。そして中でも注目すべきポイントとして、「『教育』にあてられた価値をイリッチは"value"と呼んでおり、それは商品的な意味を内在した『交換価値』を意味している、一方で『学習』にあてられるのは"worth"という言葉で、それが『本来の価値』ということを意味しているというのは非常に重大である、イリッチはこういった何気ない言葉を意図的に捉えて理論的に語っている」というように、その特徴的な言葉の対比を取り上げ解説している(※1)。
 (一)の項目については、これまでさんざん議論してきた通りだ。それは「影の」というどころか、むしろ学校の「公然的なプログラム」そのものである。
 そこでここにおいては、上記の山本の指摘の中から後半部分について見ていきたい。まず、「学校の外において得られたものは価値を持たない」とされているものに対して、逆に「学校の中において得られるものであってこそ価値を持つ」といったように、「学校の中と外」をはっきりと対比させた上でその間に線が引かれる。そしてその双方を「差別化すること」によって、一方を切り捨てつつもう一方を意図的に引き上げて、そこに一定の「価値」を持たせている。いかにもあからさまなやり口で「学校的な価値形成」が構造的に弄されているのがここからは見て取れる。

 ところで、ここで何よりもまず注意しておかなければならないというのは、そもそも「価値」というものが一体どのようにして成立するのであるかということである。価値が成り立つことにおいては、「他のものに対置させることによって自らの価値を見出そうとする、『自己意識』の構造」が、何よりまずその前提に立って機能しているのだということは、けっして忘れたり見逃したりしてはならない。
 そもそも「価値」というものは、たとえそれが「いかなるものの、いかほどの価値」だというのであれ、「他に対して、いかほどのものである」というように、あくまで他のものとの相対的な表象として立ち現れ、かつ見出されてくるものなのであり、またそのようにしてでなければそもそも立ち現れてくることもなく、かつ見出されることもないものなのである。
 ゆえに、たとえそれが「教育=教えられたことの価値(value)」であれ、また「学習=学んだことの価値(worth)」なのであれ、「中と外を対置させている」限りにおいて、それらは実に全く「同一の構造において成立している」ことになるわけである。たとえそれを、そのように「意図的に捉えて」語っているつもりなのだとしても、「価値」だと謳う限りでそれはあくまでも、「いずれかのものに対して、いかほどの価値である」というようなものとして語られるより他はないということなのだ。

 「ヴァリューはワースと混同されているのだ」というように、イリッチはたしかに『脱学校の社会』の冒頭でも言及している。そして彼のその指摘は基本的には正しいものだと言える。
 だがそれを受けて、そのような混同を引き起こしているヴァリューの方を「相対的なもの」として端的に退け、混同された側のワースの方を「本来的な価値」として持ち上げているのだとすると、そこはまた話が違ってくる。
 実際そのような「本来的な価値」とされるワースにしたところで、結局はヴァリューに対して「相対的に現れてくるもの」であるのに他ならないのだ。いやむしろ、これまたしつこく繰り返しとなるが、「価値とはあくまでも、他と対置されることによってこそ成り立っている」のである。ゆえに価値として見出されることにおいてヴァリューとワースは、その成り立ちからけっして互いに互いを切り離すことなどできはしないのだ。
 たとえヴァリューを相対的なものとして「その価値を低く見積った上で」斥けてしまい、代わりにワースこそが「価値として本来的なものである」というように、逆に「その価値を高く盛って」持ち上げてみたところで、それによってこの二つの「価値」をめぐる混迷が解決されるなどというような、簡単な話のオチにはけっしてならないのである。

 繰り返すが、「他のものに対して提示される」のが価値なのであり、それ以外では価値は価値たりえない。
 しかし逆に、「独占への意欲」をその内に秘め、時にはその意欲を公然と顕わにして憚らないのもまた「価値なるもの」の特性である。他の価値を外へと駆逐し、あるいは逆にそれを自らの中に取り込んで、「それ自体が価値である」とでもいうようにして自らの「価値の高さ」を誇示し、価値の価値たる全ての利潤を根こそぎ我がものにしようとする。「価値なるもの」がそのような我欲に満ちた思惑にもとづいて自らを形成しようとするものであることについては、たとえそれが「どのような価値」であろうとも、いずれ何ら変わるところはないだろう。
 だが、またしてもこれはくどいくらいに繰り返して言わなければならないことだが、価値はあくまでも「他があってはじめて成立する」のであり、他をなくして価値は価値たりえないというのが厳然たる事実なのである。そして、「他なくして自ら価値たらんと欲する」というような、自分自身が本来的に成り立ちえない場所に自らを成り立たせ誇示しようとする、不条理な欲望を自身に内在させているというのもまた、あらゆる「価値なるもの」の特性であると考えることができるだろう。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」


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