不十分な世界の私―哲学断章―〔6〕
人は、それぞれの対象に対する意識において、それぞれの対象を意識することになる。逆に言えばそれぞれの対象は、それぞれの人の意識にそれぞれに意識されることになる対象である、ということになる。
意識は、それぞれの対象に対する意識として、一般的に現れる。「一般的に現れる」という意味において意識はやはり、それ自体としての内容を持たないと考えられる。そして、それ自体としての内容を持たないからこそ、それは一般性を持っている、ということになる。とすると、それぞれの人にそれぞれの意識が現れることにおいては、その対象はまさしく「人それぞれ」であって、「それぞれの対象」としてまさにそれは「個別的な対象」となるのだが、しかしその、それぞれの対象に対する意識として意識が現れることの、その「形式」としては、「一般的な形式において現れる」ことになるのであり、その点で意識は「一般に共通した形式」を持っていることになる。
しかし一般的に、「意識の共通性」として考えられているのは、「現れた意識」の共通性、その「意識の内容」の共通性のことだ、とされている。端的に言えば、同じ対象に対する意識は、どの意識も同じ意識として現れる、というように一般的に考えられている。ある対象に対する見解が一致するとき、あたかも意識そのものの共同性がそこには前提されて、その一致した者同士には、その同じ対象に対する一致した関係が、そしてその対象に対する一致した行動が、共同的に作り上げられていくように考えられている。ここではまるでその共同的な意識が、共通した対象に対する関係=行動を規定しているかのように見なされている。
そこで人々は、その共同的な意識において表現された、共通して一致した意味において同じ対象を意識し、その対象に対する意識を、その共通して一致した意味に基づいて、他の者たちと共有することになる。ここで人々は、同じ対象に対する意識として同じように表現された意識を、他の人々と共有することになる。それはある意味で、その人たちを「同じ人たち」として表現するものにもなる。
意識が共有できるものである限りにおいて、その反面で、意識は「個々に所有できるもの」としても成り立っている、と考えることができる。外的に表現された意識が、その表現を媒介にして、その表現を意識することにおいて、その意識を、そのように意識した個々の人それぞれ個別に所有されることになる。「私が所有している意識」は、「他の人もまた所有できる意識」だという前提を通じて、人は他の者の所有する意識を、平たく言えば他の者の考えていることを、知ることができるところとなる。そして同様に、「私が考えていること」を他の者に知らせることができるようになる。それができるのは、私と他の者の意識が「同じだという前提がある」からだ、と言える。私の意識を他の者の意識と同様であると見なすことで、私と他の者の意識がある対象に対して同様の意識を所有していると見なすことができ、それぞれの所有する意識が同様であるとするならば、「私たち」は意識を共有していることになる。
私の意識が他の者の意識と同様であるとするならば、私の意識は、他の者の意識でもありうる意識である、と言える。その意味で私は、他の者の意識を所有しうるのだ、というようにも考えられる。また私は、私の意識を他の者の意識であるように見なすこともできる。そのような「外的な対象」として、私の意識は私の所有の対象でもある。なぜなら、人が所有できるものはきまって、その人にとって「外的なもの」であるから。そしてそのように、私が私の意識を私の対象として見なす限りにおいて、私は私を他の者のように見ることができるのでもある。なぜなら、私にとって私の対象はきまって「外的なもの」であるのだから。
ゆえにもし、意識がすなわち自己であるとすると、そのように自己の意識を他の者の意識であるかのように意識することができる限りにおいて、自己とはすなわち他者である、というようにも考えることができるところとなる。
〈つづく〉
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