労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈3〉
「労働力」とは、「一般的な労働」として抽象された、総体的な人間の活動力=生産力に対し、あらかじめ数量的に割り出され割り当てられるところの「力、およびその価値」である。
一般的な商品としての労働力は、それが「誰の仕事=労働であるか」は全くどうでもよいことである。ゆえにその「それぞれの仕事=労働の特定の形態とは無関係に、その使用価値を使用できるような生産力」であり、つまり実際においてその生産力を使用する者に富をもたらす「手段としての一般的な力」であり、だからこそそれらはそれぞれ互いに「同質な力」なのであり、だからこそまたそれらは「互いに自由に交換することのできるような、一般的な交換価値を持った一般的な商品」なのである。「労働力という商品」は、まさにこのような「労働の一般性」を前提に成り立っている。
繰り返して言うと労働力とは、その使用者に使用される限りにおいて、その使用者によって市場に持ち出され売られる商品となりうる生産物を実際に生産することのできるような、その使用者独自の生産手段として専有され使用される、その使用者の利益に資する生産活動のための「生産力」である。そこで「労働力の価値」は、その労働力の生産力が生産手段として使用されている限りにおいて、労働力がその使用者に「専有されている一定の間」に生じる、労働力の保有者つまり労働者自身が生活するにあたって、必然的に消費され喪失することとなる生活手段あるいは生活資料の、その「費用」に見合ったものとして割り出されている。それを労働力の使用者が、労働力の保有者つまり労働者に対して「代償する」のに見合うものとして、その労働力を一定の条件で「買い取る」ことにより、その労働力の価値は成立するわけである。
そのように割り出された「労働力の価値」は、労働力の保有者つまり労働者が、労働力が「その使用者によって専有されている間」に必然的に消費され喪失することとなる、労働力の保有者つまり労働者自身の生活手段また生活資料を、「補填するための代金」として、労働力の保有者つまり労働者に「支払われる賃金」に相当する。労働者は、彼の労働力がその使用者に「専有されている間」は、彼の生活の維持に必要な生活資料を補填する「彼自身のための活動」を自由に行うことができないから、その「代償」として、それに見合うだけの賃金が彼の労働力の使用者から支払われることになる。
そして何より重要な点として、その賃金は労働力の使用によって生産された「商品を売った代金」からではなく、労働力の使用者が「予め持っている資金」から支出されるということである。それはなぜかといえば、労働力が「商品として買われるものだから」であるのに他ならない。
労働者への賃金は、「労働者による、実際の労働に対する報酬」というよりも、「労働力を独占的に専有していることに対する補償」として支払われる。言い換えると賃金とは、労働者の「その労働力による、実際の生産に対して」支払われているというよりも、「その労働力の生産力を独占的に専有していること自体に対して」支払われていることとなるのだ。その「独占的専有」こそがまさしく、「労働力を商品として買う」ということの意味である。そして「労働力商品を独占的に専有している限り」において、その商品の能力すなわち「労働力の生産力」を、使用者は「自由に扱うことができる」という意味においても、それはまさに「専有」となるのだ。
〈つづく〉