可能なるコモンウェルス〈37〉

 社会契約とは、ある種の「想像性」にもとづいて構想されている理念だと言える。ゆえに「社会状態」であれ「自然状態」であれ、そのような社会契約理念にもとづいた定義づけ自体も、「人と人との関係性について想像された状態」を示しているものなのだ。
 「何処の何者でもないがゆえに、何処ででも何者にでもなれる個人としての自己自身を想像して、他者と関係する」ものであるか、あるいは「一定の何者かである自己自身を想像し、他者と関係する」のであるか、それがはたして「自然的」であるのか「社会的」であるのか、そのいずれであるにせよ、そういった「他の人間=他者との関係性の状態」を人は「想像」した上で、実際のその関係に対して働きかけることになる。言い換えると、人と人の関係性の「現実性」とは実のところ、まさしくそのような「働きかけそれ自体」にあるのだ。そして人は、自らのその働きかけを「事後的に倒置」し、それを「ある一定の状態」として、あるいはその働きかけに関する「一定の条件」として見出している。加えてその「状態、あるいは条件」を、「一定に保持=維持することを目的化している」のが、要するに一般的な「社会契約の観念」なのだ、と考えられるだろう。
 とすれば、それが「獲得されたもの」であるにせよ、あるいは「設立されたもの」であるにせよ、それがある一定の人々の間での「共通の(=コモン)利益(=ウェルス)」であるという前提にもとづいて形成されたある一定の人間集団=共同体すなわち「コモンウェルス=国家」においては、その「国家が設立されたならば、それについての同意はすでに、そこに居住しているという事実により成立している」(※1)ものと見なされ、なおかつその「国家の支配する領域内に住んでいるということは、すでにその国家の主権に服従しているということ」(※2)なのだと見なされているとしても、人はそれを肯うより他はないのではないか。つまり、「その国家の領域内に生まれた者であれば、誰もが生まれながらに、その国家の共通利益に同意している」というわけであり、その国家の共通利益が一定の状態に維持されることを目的とした「国家の主権」に、その者は「生まれながらに服従している」のだ、ということになるわけである。
 而してこのように、社会契約理念にもとづく「社会的人間の社会化=再−未開化」とは、見事果たされることとなる。

 結局のところ「社会契約」とは、「生まれながらに何処の何者であるかがあらかじめ決定されている、血縁・地縁共同体」を嫌ってそこから逃れ、社会的に自由で平等な「何処の何者でもないがゆえに、何処ででも何者にでもなれる個人」となって、自らの意志と主体性にもとづき、互いに協同して自発的に「市民社会」なる人間集合体を形成した人々が、しかしその、一定に維持し続けることがけっして容易くはない、自由で平等な個人間における社会的諸関係の、その不安定な「流動性」に疲れ、かつてはそれに束縛されていながら、それでもその反面では常に一定の安定した状態の中で生活することができていたところの、血縁・地縁共同体内部における日々の記憶を恋うあまりに、それを「想像的に回復」しようと、あらためて自発的かつ主体的に構築した、人と人との間における社会的諸関係の「再−自然化=再−未開化状態」プログラムなのだ、というように言ってもよい。
 その上で人は、そういった社会契約のプログラムにしたがい、荒れ狂うような社会的諸関係の流動性から「自己を保存すること」を目的とする、一定に安定した状態に維持されている生存環境を再構築し、その同じような志向を共有する者たちと協同して、「互いの自己保存を共通利益とする社会的共同体」をあらためて形成しようと望むわけである。そこでそんな彼らが望んでいるものとは要するに、結果的に彼らが逃れてきた「生まれながらに何処の何者であるかがあらかじめ決定されている、血縁・地縁共同体に似通ったもの」として形成されることになるのは、もはや避け難いことだろう。人というものは結局、そのような環境で生き延びていく術しか知らなかったのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 ルソー「社会契約論」
※2 ルソー「社会契約論」

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