可能なるコモンウェルス〈34〉
実際もしも人間にとってはただ単に、「自己保存だけが目的なのだ」というように考えられているのであれば、それがたとえ「獲得されたコモンウェルス」の観念にもとづいた、国家の独占的・一方的な支配が確立されたような社会の下であっても、とにかくただそれを受け入れて、それにただ黙って服従してさえいれば、その者自身の自己保存については、少なくとも達成され保証されるはずである。
また、たとえ個々人の自発的な意志と主体性によって「設立されたコモンウェルス」の下においてであっても、しかし当のそのコモンウェルス=民主的政治体に対して、それに内属する「各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」(※1)ことが求められているというのであれば、結局のところそれは「服従しているのと同じこと」になるのではないか?
たしかに一面的にはそのようにも見えるだろう。しかし、ここで今一度原理的に見直してみよう。
まず「獲得されたコモンウェルス=支配的国家」においては、「ある特定の主権者」に対して、自らのあらゆる権利のみならず「自己自身そのもの」までもを譲り渡すことが要求され、そのような「自己の全面譲渡」にともなって、特定の主権者に「全面服従すること」となるわけである。そこでようやく各々個人の自己保存は、その特定の主権者から「供与される」ことになるわけなのだ。
一方で、個々人が自発的な意志と主体性により「設立されたコモンウェルス」においては、その個々人「自らが主権者である」わけなのだから、図式的に考えると、「主権者である自らに、服従者となる自らを全面的に譲り渡す」ということになるのである。言い換えると、個々人は「自らを主人とすることで、それに対して自ら服従し、自らによる供与を、自らが受ける」という構造の下にこの「設立されたコモンウェルス」なるものは成立しているわけである。
この構造にもとづいて、そのコモンウェルス=民主的政治体に内属した構成員となる、複数あるいは不特定多数の人間「全員」が、誰一人の例外なく「各人はその一切を譲り渡すことになるので、ゆえに万人にとってその条件は全く平等なものとなる」(※2)わけであり、別の側面から見れば「各人は『全ての人に』自己を譲り渡すことになっているわけなのだから、逆に『特定の誰にも』自己を譲り渡さない」(※3)ことにもなっているのである。このことは、そのコモンウェルス=民主的政治体に内属した構成員である、複数あるいは不特定多数の人間「全員に対して求められる」ことであるが、それと同時に「全員に対して約束されている」ことでもあるわけなのだ。「契約」とは、まさしくこういう原理の事象を言うものなのである。
あらためてまとめてみると、「獲得されたコモンウェルス=支配的国家」においては、被支配者が常から一方的な負担を強いられると一般に考えられるわけだが、一方で「各人の自発的な意志と主体性によって設立されたコモンウェルス=民主的政治体」においては、その「被支配」において当の各人が負担する「条件が万人に平等であるなら、誰も他人の条件の負担を重くすることに関心を抱かない」(※4)ものだと思われている。さらに加えると、「自分に対する権利を構成員に譲る場合、同じ権利を構成員から受け取らないことはないので、各人は喪失した全てのものと同じ価値のものを得、さらに自分の持つものを保存するために、いっそう多くの力を獲得する」(※5)ことができるものだと考えられているわけである。「万人の共通利益に資するもの」として構想するのであれば、それで十二分に足るところであろう。そしてこの充足性は、特定の主権者に諸個人が全面服従することで成立する、いわゆる獲得されたコモンウェルス=支配的国家に対し、個々人の自発的な意志と主体性によって成立するものとされる、いわゆる設立されたコモンウェルス=民主的政治体が「優位」にあるものとする、一般的な社会契約概念を「正当化する論理」ともなるのだろう。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 ルソー「社会契約論」
※2 ルソー「社会契約論」
※3 ルソー「社会契約論」
※4 ルソー「社会契約論」
※5 ルソー「社会契約論」
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