可能なるコモンウェルス〈3〉

 主権国家において、「国家」とはまさしく主権者の存在を意味するものであるというように、一般には考えられているとすれば、主権者とはすなわち「国家そのもの」であるというように断言することもまた、いささかも憚られることではないだろう。そこから鑑みるに、「絶対主義王権国家において、国家の存在は明白」(※1)だったというのは、まさにその「主権者の存在が明白だった」ということに他ならない。そこで要するに、絶対君主とは「国家そのものとして、ただ一人その存在丸ごとで、自らの支配する国家の全てを代表していた」ということになるわけである。
 翻って「人民主権」について考えると、人民・国民が国家の主権者であるとするならば、今度はその人民・国民が、「全体として一体となり」国家そのものとしてただ一人、その存在丸ごとで国家の全てを代表することとならなければならない。絶対王権と人民主権、その双方の「主権者」をめぐる理屈というのは、全く一緒なのである。ここに違いがあってはならない。一国家の主権とは、たとえどれほど主権者が入れ替わっても、その国家の「主権そのもの」が入れ替わるなどということにはならないし、またけっして入れ替わってはならないのだ。なぜなら、「国家そのもの」はけっして入れ替わらないし、またけっして入れ替わってはならないのだから。
 というわけで、国家主権の問題とは一も二もなく「その国家に主権があるのか否か」という問題なのであり、その国家の「内部」がどうであれ、つまり「誰」が主権者であるか否かはどうであれ、その国家が主権を持つ国家であるのか否かということ「だけ」が問題となるのである。主権国家である限りは、たとえそれが「どのような」国家であれ、いずれの国家でもこの原理だけはけっして変わらない。そもそも「国家はそれ自身のために存続しようとする」(※2)ものであるならば、それを言い換えるなら「国家は国家自身を維持するためにのみ機能する」のであるからこそ、ゆえにこの意味においての国家とは、まさしく「ステート」と呼ばれうるところとなるわけである。このことは、たとえ「人民主権」であろうと「絶対王権」であろうと、何ら違いはないし、また違ってはならない。その国家の様態がいかに変わろうとも、国家の本質はどこの国家であれいつの国家であれ、「少なくとも形式として同一」なのであり、また必ずそうでなければならない。もしそうでなかったとしたら、われわれは国家なるものについて議論することさえけっしてできはしないだろう。

 繰り返すと、主権国家においては主権者のその「個別的な生の内容」つまり主権者がそれぞれ個別的に「どこの誰であるか」などということは、その国家の「主権そのもの」においては何らの影響のないものでなければならない。主権者がそれぞれ個別的にどこの誰であるかによって、その国家の主権そのものが変更されてしまうとしたら、その誰か個別な存在の有無、「その誰か個別な存在の生死」によって、もし国家の主権そのものに何か動揺が生じるようなことがあるとしたら、その国家はたびたびにわたって「国家そのものの維持」が危機にさらされることとなり、そのたびに国家の「主権そのもののあり方」が問われ、そのつど何らかの変更を加えていかなければならないことになる。
 国家そのものである主権者が「特定の個人として入れ替わる」たびに、国家の主権そのものまでがころころと入れ替わるというのはけっしてありえないことであり、全く望ましくないことである。それは主権自体の否定にもなってしまう。逆に言えば、このような危機が「予見される」からこそ、国家の主権は主権者自身の個別的な事情とは完全に切り離された状態において設定されることになるし、またそうでなければならないのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 柄谷行人「世界共和国へ」
※2 柄谷行人「世界共和国へ」

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