労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈5〉
ルイ・アルチュセールは、「労働力の再生産は、労働力に自らを再生産するための物質的手段を与えることによって、すなわち賃金によって保証されており、賃金は労働力の支出によって創り出された価値のうち、労働力の再生産に必要不可欠の部分を表わしているから、労賃はかくして(労働力の再生産の条件として)『作用する』のだ」(※1)と言っている。また、ここで「労働力の再生産に必要不可欠」と言っているのは、「賃金労働者の労働力の再構成に必要不可欠なものということであり、付け加えるに、彼自身の子供の養育と教育にとって必要不可欠なもの、という意味でもある。というのは、プロレタリアはそのことによって、労働力として再生産されるのである」(※2)としている。
労働者の「労働力としての自己自身」は、賃金などの物質的諸手段によって再生産される(賃金を用いて飲食や休養などをとることによる体力の回復、等々)のみならず、彼ら自身の子どもたちを生み育て、それを「次代の新たな労働力として生産すること」によっても、つまりその労働力を「将来的に売ること」によってもまた再生産されることになる。要するに個々の労働者の「労働力商品としての自己再生産・再構成」は、そのようにして単に「個々の労働力としての諸個人」のみならず、入れ代わり立ち代わりに次々と生み出されてくる「新たな労働力」によって、「その階級全体の再生産・再構成として実現される」のだ、とアルチュセールは考える。だから「労働力が労働力として再生産されるためには、その再生産の物質的条件を労働力に保証するだけでは不十分」(※3)なのだと彼は言う。なぜなら、再生産の物質的条件の保証のみにおいて再生産される労働力は、「消費された労働力の補填」としてのみ再生産されることを保証されているのにすぎないのだから。「補填」である限り、そこで結果的に再生産されるのは、最大限でいっても「それまでと同程度の労働力」であるのにすぎない。そして、それまでと同程度の労働力として再生産された労働力商品、あるいは、それまでと同程度の労働力として新しく生産された労働力商品は、実質的には「それまでよりも安く買われる」傾向を持つことになる。なぜなら、「同程度の労働力」であるならば「現在使用している労働力」をそのまま使用し続ければよいだけの話であって、「同程度の商品」をあえて買うならば、「安く買えること」以外に、その理由は存在しないのだから。
だから賃金労働者は、もはやそれ以上は高く売ることができないかもしれない「労働力としての自己自身」を、しかしそれでも生きている限りは再生産し続けて「労働力としての自己自身」あるいは「自己自身そのもの」を維持し続けなければならないという意味において、また一方では、彼が「自らの子どもたちを、新しい労働力として生産する立場にある親でもある」という意味において、彼のその子どもたち自身のためのみならず、「それを実質的に売る立場にある親=彼自身」のためにも、この「新しく生産される労働力商品」を、「より高く売ることのできる商品」として生産しなければならない。つまり、彼の子どもたちを「より高い価値を持った労働力として生産する必要」が、彼にはある。彼は、彼自身のためにも、彼の子どもたちを、より高く売って、より多くのものを得なければならない。そうでなければ彼自身の「再生産された労働力」は、ただただ磨り減っていくばかりとなるわけだ。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
※2 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
※3 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」