可能なるコモンウェルス〈23〉

 近代のデモクラシー=民主主義の成立を担った人間集団といえば、それは言うまでもなく「市民」である。そしてその「市民という人間集団」が、単に抽象的な区分に終わることなく、明瞭な具体性と現実性をもって一定の社会的役割を果たしうるものとなるよう、その機能的基盤を支えていたのが、自分の意志で自由に扱える資産・資本と、それを活用するに十分な独自の生産手段を所有する、いわゆる「ブルジョワジー」と呼ばれる一群の人間たちであった。ゆえに一般的にはむしろ「市民=ブルジョワジー」というように認識されることの方が多いのかもしれない。
 ただ、そのような「限定」を加えた認識を先入観として持ってしまっている限りでは、「市民」という表象にもまた一定の限定が加えられてしまうことになる。そしてそれにより「市民という、現実として人間集団」の、現実的な活動の「可能性」にも同時に、一定の限定が加えられることとなるだろう。そこにこの「市民という人間集団」が現実に直面している、その活動力の「限界」が見えてくるようにも思われる。
 こうした、市民という表象と同一視することの是非についての議論はともかくとして、「現実に」ブルジョワジーと呼ばれる一群の人々の、その「現実的な活動力」の武器となっているのは、一も二もなくその経済力である。そして経済の特性とは、何と言ってもその匿名性にあるのだ。経済は、何とでもつながることができるし、何にでもなれる。ゆえに経済とは「自由」なのだ。これの自由を、ある意味「独占的に所有している」のがブルジョワジーなのであり、この「独占」が彼らに「他の人々」とは違う、ある種の「特権」を与えているのである。

 人民主権体制の確立によって、「それまでの特権的支配層」から入れ替わり、国家統治を担う中核的存在として、その「玉座」についたのは、「新たなる特権階級」であるブルジョワジーたちであった。しかし彼らは自らの「特権」をあからさまに誇示しようとするよりも、その独占的に所有する強力な武器である経済の、その特長でもある「匿名性」によって、むしろ自分自身を「デモス=国民の中に紛れ込ませる」ことで、ある意味かつての支配者たちの過ちを意図して回避するかのように、「特定の特権者」として排除されないよう慎重に配慮することで生き延びようとしていたわけなのでもあった。
 ブルジョワジーは「一般の人々」と、「外部的に対立すること」を望まなかった。特定の存在として、社会的に切り出され排除されることを何より怖れた。それは彼ら自身が彼らの敵対者、すなわち「旧来の支配者たち」を、特定の存在として社会的に切り出し排除することで、つまりは「敵として特定された存在として外部化すること」によって、彼ら自身による社会的支配力を「内部的に確立してきた」からである。
 特定の存在として社会的に存在させられると、そのような存在の仕方以外ではもはや存在することができなくなる、そして「それ以外のもの」にはもはや変化することができなくなる。そうなると、もしもそのように自身が特定された「社会的な存在の形態」が、あるとき自身から一切剥奪されることとなってしまったら、自身はもはや「社会的に存在すること自体できなくなってしまう」のである。
 ブルジョワジーは、彼らが「ブルジョワジーとして定義づけられる、その個別的な共同性」よりも、「国民=デモスとしての一般的な共同性」に、彼ら自身の帰属する共同性を拡大して、「我々も彼らも、皆一つの国民なのだ」という、「一般的な共同性」の下に自分たち自身の存在を置いておくことを望み、その共同性の「内部」に自分たち自身の存在が共同化されていくことを求めたわけである。

〈つづく〉

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