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「残月 竹田城最後の城主、赤松広英」 水嶋元

「のう宋舜、学問で乱世を治められようぞ?」



「残月 竹田城最後の城主、赤松広英」 水嶋元



龍野城主・赤松広英(ひろひで)は、はじめ毛利元就の孫・輝元に味方していましたが、状況が変わります。


天下平定を目指し、中国地方に進出してきた織田信長は、羽柴秀吉に討伐を命じ、播磨に進軍。


姫路の黒田官兵衛は「所領安堵下さる故、信長殿に従いなされ。時勢には勝てませぬぞ」と勧誘し、播磨の諸将は次々に織田へと従ってゆきます。龍野の赤松広英も、織田方につきました。


赤松広英は、平井郡佐江村の乙城に蟄居することになります。


退隠生活の広英は、父の法要に出向いた景雲寺で、広英にとって重要な人物、宋舜(宗舜:そうしゅん)こと藤原惺窩に出会います。


広英は、宋舜に訊ねます。


「のう宋舜、学問で乱世を治められようぞ?」


宋舜は答えます。


「高遠な理想ほど直ぐには現実に実らないでありましょうが、その思いを、ずっと忘れないでくだされ」


宋舜との交流が深まるにつれ、家臣たちは囁きます。


「若殿は剣術をお止めになり、近頃は本ばかりお読みになっておられる

(中略)

広英は儒書を読みながら不明があると、その本を携えて景雲寺の宋舜に訊ねるようになっていた。


家臣や側近は不安に思っていましたが、その不安をかき消すように、秀吉から毛利攻めの命令が広英に下ります。


備中高松城攻め。


その最中に本能寺の変が起こったのです。


秀吉は毛利と急いで和議を結び、京へとって返します。
蜂須賀正勝軍の広英は、殿(しんがり)を任されました。


幸い、毛利軍は追ってこなくて、秀吉は明智光秀を天王山で討ちました。


信長亡きあと、秀吉の力が大きくなります。


賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利したあと、蜂須賀軍の広英は、蜂須賀正勝の媒酌で妻を娶ります。


宇喜多直家の娘、秀家の姉 千鶴といいました。


秀吉は蜂須賀正勝の報告に上機嫌であった。直接の血縁ではないが、広英は宇喜多を通して秀吉の身内衆に入ったも同然であった。


幸せもほんのつかの間、広英の思いとは裏腹に戦が続きます。


小牧・長久手の戦い

四国の長宗我部攻め


そうして


これまでの戦功により、広英はついに
但馬の竹田城・二万二千石の城主となったのです。


ここから、広英の竹田城主としての活躍がはじまります。


城下の民のことを一番に考え、年貢の一律納税を廃止します。


土地を上・中・山間部と3つに区別。
上田は村高の3割、中田は2.5割、
貧しい山間は2割と年貢を引き下げました。


また


領地の治水を行いました。


竹田城下では、台風がきたらよく洪水が起こりました。


城下や広域な川では、自領だけでは治めきれなく、広英は隣国までお願いに行きました。


殖産興業にも努め、広英は領地の民に慕われていきます。


「今度の殿様は、城造りより百姓に励めと言うてな。おとなしいええ殿様だで」

「なんでも書がお好きらしい。刀を振りまわすなら牛の餌の草でも刈れとか・・・・・・」

寄ると触ると広英の殿さまぶりの噂が広がっていく。


宋舜もまた、変わりました。


僧衣を捨て、藤原惺窩と名乗り、儒学者として歩みだします。


呼応するように広英も、広く道に通ずるとして広通と改名。惺窩とともに学問を深めてゆきます。


しかし


時代はまた戦争へ


北条攻め

朝鮮出兵


そうした中で


豊臣秀吉が亡くなります。


世は、秀吉亡きあと、勢力を拡大している徳川家康と豊臣家との対立が深まってゆきました。


広通の妻の弟・宇喜多秀家は、豊臣側の石田三成につくことが大いに考えられます。


その命に従うと、広通も徳川家康と敵対しなければなりません。


天下分け目の関ヶ原の合戦が迫ります。


石田三成は、舞鶴に近い諸大名・広通を含めて、田辺城攻めを命じました。


田辺城攻めは、後陽成天皇の勅令で細川幽斎の開城という形で終わりましたが、その後すぐに起こった関ヶ原の合戦で、西軍・石田三成は敗れます。


宇喜多秀家は行方がわからず、どこにいるのかわかりません。秀家の追っ手が、竹田の城下にまで出没していました。


残党狩りは、日々激しくなっていく。


広通は、武将らしく最期の準備をしていました。


そこに助けが入ります。因幡・鹿野藩三万八千石の亀井茲矩(これのり)です。


「此度、鳥取城攻めを命ぜられたが、お手伝い願えれば家康公に必ずお取りなし致そう」


そのように亀井茲矩は言いました。


広通は、鳥取城攻めに向かいます。


その鳥取城攻めの最中、城下で大きな火事が起こりました。


「火消しをいたせ!」広通は突然、大声を発していた。

(中略)

「この急場に戦はならぬ。火消しをなされと、亀井殿に伝えて参れ!」


この鳥取城下でおこった火事のことで家康は、亀井茲矩を大いに叱責しました。


「茲矩、鳥取攻めの件、みなよう存じておる。広英を庇(かば)うは武士の情であろうが、城下を焼き町衆を損するは命に背くであろうが」

すっかり狸爺になった家康は白眉を見据え、一言も労(ねぎら)おうともせずに不機嫌この上ない。

(中略)

「殿、あの災火は城を攻め難しと短慮された赤松殿の狼藉でございまする・・・・・・」

「なんと申す。叱られて正直に吐きおったか。広英は田辺攻めといい、生前の太閤殿下を笠に着てわれらに盾つき、此度の鳥取攻めの非情もはや許せぬ。早々に腹を切らせよ」


広通は覚悟していたんだと思います。たとえ茲矩の助けがあったとしても、このような結果になることを。


理由はいろいろあったと思いますが、家康の思惑を、広通はよくわかっていたのでしょう。


広通は何も反論せず、鳥取の真教寺にて腹を掻き切りました。


慶長五年十月二十八日、竹田城主赤松弥三郎広通、三十九歳であった。


朝鮮との戦で捕虜となり、広通、惺窩とともに学問を深めた 姜沆(カンハン)が帰国後、国王に報告したものが残っています。


「日本の将官は悉(ことごと)く盗賊、
ただ一人広通のみは誠実な武将である」


藤原惺窩は


「あの愚直なほど誠実な高徳の武将を・・・・・・」

「道に外れた方法で人を使うでない。武士の風上にもおけぬ亀井のような言を信じ、民にはなくてはならぬ赤松を殺すとは、妻子にも嗤われようぞ。この愚か者めが」


藤原惺窩は儒学者として家康から千石で招かれましたが、それを辞退しました。


その後、決して幕府には仕えなかったといいます。


平和を愛し、民に慕われ、学問を民のために深めた竹田城最後の城主・赤松広通。


今も竹田城に登れば、広通の桃源郷への夢がゆるやかな風にのって感じられ、通り過ぎてゆきます。




【出典】

「残月 竹田城最後の城主、赤松広英」 水嶋元 東洋出版


■赤松広通の短編小説


いつも読んでいただきまして、ありがとうございます。それだけで十分ありがたいです。