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「夏物語」 川上未映子 第二部


「何よりも、子どもたちのことを考えるべきでは ないでしょうか。妊娠して出産することが、ゴールではないと思います。」



「夏物語」  川上未映子




【第一部より】



夏目夏子は20歳のときに、小説家を目指して上京しました。


その後は、アルバイトをしながら生活をしていました。33歳のとき、小さな出版社が主催する文学賞を受賞し、小説家としてデビューしました。


かといって、そのあと順調に小説が刊行されたわけではなく、ときどき舞い込んで来る小説やエッセイを書く仕事でなんとか生計をたてているといった状況でした。


はじめて刊行した短編集がテレビで紹介されて、本がヒット!6万部売れて、ようやく姉・巻子に僅かながらも仕送りができるようになりました。


文学賞を獲った5年後、38歳の夏子はある出来事を思い出していました。


かつての恋人、成瀬くんのことを。
成瀬くんが、他の女の子と寝ていたことを。


夏子は成瀬くんとつきあっているとき、
性行為自体に違和感を感じていました。

いつまでたってもセックスは、快感や安心や充足感とかかわることはなく、裸の成瀬くんが覆いかぶさってくると、必ずわたしはそこでひとりぼっちになった。

好きな人とセックスするのがこんなにつらいだなんて、自分がおかしいいんだろうと思ったこともあった。


夏子は成瀬くんにその女の子が好きなのか、と問いつめました。

成瀬くんは首を振った。好きとかそういう気持ちとはべつに、そしてわたしへの気持ちとも関係なく、どうしても女の子と寝たかったんだと成瀬くんはうなだれて言った。


夏子と成瀬くんは別れました。


東日本大震災のあと、不意に成瀬くんから電話がありました。


成瀬くんは夏子が小説家になったことを知っていました。


成瀬くんは震災のことで夏子に言いたいことがあったのです。文筆家なら「もっと意味のある事を書け」と!


それは、原発のことや政府の無能さのこと。メディアへの不信感など。そのことで夏子のことを電話越しに糾弾したのです。


電話を切った後、夏子は気になって、成瀬くんのブログやフェイスブックを見にいきました。


そこには成瀬くんが電話で話していた、震災関連の言いたいことが書かれてありました。


また、生まれた赤ちゃんの写真もありました。


夏子は不思議な気持ちになります。

この赤ん坊を産んでいたのは、もしかしたらわたしだったのかもしれない。


成瀬くんとしかセックスしたことがなかった夏子は、そう考えてしまいます。


願いが芽生えます。


「自分の子どもに会いたい」


けれど、相手がいない。


セックスはしたくない。できない。


偶然、テレビのニュース番組を見ていたときに流れてきたのが、精子提供の特集。夏子はいろんな精子提供のサイトを調べたりします。


そして


メールをチェックしているときに、目に留まったのが「精子提供(AID)について考える」でした。

「当事者としてこの問題に取り組んでいる逢沢潤氏をお迎えして、『親と子』、そして『いのち』はどうあるべきかについて、語りあいたいと思います」


夏子は自由が丘駅から数分の所にある会場に行き、精子提供で生まれた逢沢潤と出会います。


逢沢潤は30歳になったある日、父方の祖母から血のつながった孫ではないと告げられました。東京の大学病院で、母がAID治療を受けて出産した子供でした。


その後、実の父親をさがしましたが、まだわからないままなんだと。


逢沢潤は言いました。

「何よりも、子どもたちのことを考えるべきではないでしょうか。妊娠して出産することが、ゴールではないと思います。

そのあとに、子どもの人生はつづきます。そして子どもたちには必ず自分がどこから来たのかを知りたいと思うときがきます。誰と誰のあいだに産まれたのかを知りたいと思うときがきます。

自分の出自について知りたいと思ったとき、必ず知ることができるように。せめてそれだけは提案しつづけたいと思います。」


逢沢潤は同じく精子提供で生まれた善百合子という女性と出会って、当事者(AID)の会のことを知りました。そして、善百合子とつきあうようになりました。


夏子はAIDのインタビュー本で、善百合子のことを読んでいました。


善百合子の両親は仲が悪く、物心ついた頃から緊張を強いられるような環境で育ちました。


たまに帰ってくる父親から、性的虐待を受けていたのです。母親や祖母にも言えないままでした。


百合子が12歳のときに、両親が正式に離婚しました。


25歳のときにAIDで誕生したことを、百合子は知りました。そのとき、百合子は奈落の底に突き落とされたような感覚になりました。性的虐待をしていた父親が、実の父親でなかった事実に衝撃を受けました。


AID当事者の会の後、頻繁に逢沢とメールのやりとりをするようになった夏子。逢沢と会って、食事をするようになりました。


逢沢は夏子に訊ねます。


子どもが欲しいというのは?

「子どもを育てたいということ?それとも産みたいということなんだろうか。それとも、妊娠したいということなんだろうか」

「そのぜんぶが入った『会いたい』っていう気持ちなのかもしれません」


と夏子は答えました。


少しずつ夏子は逢沢潤に気持ちが傾いてゆきました。


ある日、夏子は作家仲間の遊佐リカの家に編集者・仙川諒子とともに招かれます。


そのとき、人気作家であり直木賞作家の遊佐リカと夏子の編集者・仙川諒子に、子どもがほしいこと、精子提供を受けて出産しようと考えていることを話しました。

「ぜったい子ども、産むべきだよ」

「子どもをつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない」


とシングルマザーの遊佐リカは言いました。


遊佐は夏子を後押ししましたが、仙川諒子の考えは違いました。


帰り際の駅で、仙川諒子は夏子にはっきりと言い放ちます。

「わかってると思いますけど、真に受けないでくださいね」

「どうして子どもなんて、そのへんの女が言うようなことにこだわるの。ねえ、しっかりしてくださいよ、夏子さん。子どもが欲しいなんて、なぜそんな凡庸なことを言うの。真に偉大な作家は、男も女も子どもなんかいませんよ。

(中略)

リカさんはしょせんエンタメ作家ですよ。

あの人にも、あの人の書くものにも文学的価値なんかないですよ。あったためしがない。

(中略)

でも、夏子さんは違う ━ ねえ、いまお書きになっているものがどうにも動かないようならね、それはそこに、その小説の心臓があるんです。それこそが大事なんです。

すらすら書ける小説に何の意味が?ためらわずに進んでいける道になんの意味が?ねえ、最初から原稿を挟んで、ふたりでやってみましょうよ。

だいじょうぶよ、わたしがいるから。わたしがついてる。きっとすごい作品になるもの。わたし信じてるのよ。

誰にも書けないものが、あなたには書けるって」


夏子のこころは揺れました。
わからなくなりました。
でも、子どもに会いたいという気持ちは変わりません。


電話が鳴りました。

「あー夏子はん」


大阪の巻子からでした。


夏子は巻子にも、精子提供で子どもを産むことを考えていると話しました。

「あかんわあ、それはあかんわ、ぜったいにあかんがな。それは神の領域やがな。」

「あんた子ども産んだり育てるのがどんだけ大変なことかわかってるやろに。どことも知れん相手ので妊娠てそんなことが許されるわけないやろな、子どももどうなるねん」

巻子は絶句した

「夏ちゃん」

「もう切るわな」


夏子はほぼ反射的に、精子の個人提供をしている恩田から届いたメールを開き、送信しました。後日、恩田と渋谷のマイアミガーデンという店で会うことにしました。


当日恩田と会うなり、いきなり本題に入ります。


精子提供の流れを恩田は説明し、恩田は自信満々に語りました。

「わたしよりいい精子って、まずないってことです。妊娠するかの可能性がいちばん高いってことです」


そう言って、恩田が個人提供に至った動機を話しはじめました。


基本は人助けだと言いながら、自分の強い遺伝子を残す使命感のようなものを語りはじめたのです。そこから価値観がずれていくような、夏子の本質から完全にずれた話が繰り広げられてゆきます。


恩田の性の自慢と自信、そんなイヤな感じの話を夏子は延々と聞かされ、気持ち悪さで脳内が支配されてゆきました。嫌というよりも厭でした。


「1つの細胞が3つに分かれ、正義を纏っている」かのような恩田の言動が続きました。


夏子の思いがまったく無視された、ひとり上手と呼んでもいいかのような、気味の悪い圧力がのしかかります。完全にホールドされてしまったかのようです。


夏子は恩田の目つきに恐怖を感じました。


恩田と会ったあと、帰りの夜道を歩いていると、向こうから歩いてきた女の人と目が合いました。


善百合子でした。


かすかに会釈して、通り過ぎてゆく善百合子。


夏子は振り返り、百合子を追いかけて行きます。


街灯が少なくなった住宅街に入って行き、百合子は足を止めました。夏子がついてきたことに気づきました。


百合子は公園に入って口を開きました。

「どうしてついてくるんですか」

「逢沢の話ですか」

「逢沢と、仲が良いんでしょう」


夏子は逢沢の話をしたかったわけではありませんでした。


ふたりは公園のベンチに座り話しました。


夏子はさっき、個人の精子提供者に会ってきたことを話しました。


善百合子は


逢沢はわたしに同情しているの。 
と百合子は夏子に話しました。


百合子は逢沢にも話していなかった壮絶な過去を話しはじめました。


父親からの性的虐待は一度や二度ではなく、慣れてくると別の男たちを何人も呼んで虐待を受けたこと。脅されたこと。


家だけではなく、車に乗せられて人気のない河川敷の土手に連れて行かれたこと。その間に見ていた雲の形や同じくらいの歳の子どもたちが遊んでいる姿を見ていたこと。

「あなたはどうして、子どもを生もうと思うの?」

「人が生まれてくるっていうことは、
 素晴らしいことだって信じているからだよね」

「一度生まれたら、生まれなかったことにはできないのにね」


百合子の話は圧倒的でした。何も、誰も一切言葉を挟みこむ余地がない圧倒的な話に、読んでいる僕は呆然とするしかありませんでした。緑子の反出生主義をまさに完全にしたようでもありました。

「あなたたちは、何をしようとしているの?」





夏子は高熱を出しました。


高熱を出している間、夏子の中に何度も善百合子が現れました。


夏子は百合子が言っているとおりだと思いました。百合子のことばかり考えました。

善百合子は本当に子どもだったのだ。

いくつもの黒い影の後ろで閉められるドア、乾いた音をたてて締められる冷たい鍵の音を聞いたのは、まだ子どもの善百合子だったのだ。

後部座席の窓の外、はるか上空を穏やかに流れて知らないあいだにその姿をすっかり変えてしまう雲は、まだ子どもの善百合子の目に映っていたのだ。

どこからか子どもたちの笑い声が聞こえている。小さく小さく姿も見える。ねえ、こことあっちは、本当におなじ世界にあるの?


電話が鳴っていることに気づきました。
逢沢潤からでした。


逢沢は夏子の小説を何度か読み返していると伝え、夏子は姉とちょっとけんかをしたことを話しました。善百合子の話はしませんでした。


夏子は姪の緑子の誕生日に、大阪に行く話をしました。逢沢は、緑子の誕生日がいつなのかと聞きました。

「三十一日」

「ほんとに?僕もおなじだ」


それから逢沢は、善百合子と会っていないことを話しました。

逢沢さんは電話のむこうで小さく息を吐いた。

「彼女に会わないでいることが、話さないでいることが、つらくなかったんです。それどころか ━どこかほっとしている自分に気がついたんです。僕がつらかったのは」

「もうずっと、夏目さんに会えないでいることが ━僕にはそれが、苦しかったんです。」


夏子は逢沢が言ったことが夢みたいだと思いました。

「・・・・・・わたしのこんな気持ちは、何にもつながらないんです。逢沢さんがわたしに会いたいとか、そんなふうに思ってくれても、そんな夢みたいなことを言ってくれても、わたしはそれを、なにもかたちにすることができないと思う」

「子どものことも ━ そう、子どもが欲しいとか、会いたいとか、そういうことはぜんぶ、自分にできるわけがないって、わかってたのかもしれない。

(中略)

なのに、あほみたいに興奮して、浮かれて、自分にもできるかもしれんと、もう、ひとりじゃなくなれるのかもしれんと、自分にもなにか、誰かとくべつな存在が、存在に、会えるのかもしれないと」


もう

「もう、会いません」




「もしもし夏ちゃん、ひさしぶり」


緑子の明るい声が電話から聞こえてきました。


今度21歳の緑子の誕生日に、大阪に行くことを約束していました。


緑子は

「お母さんとけんかしたままやろ」

「昔。わたしがまだ小さいとき、お母さんと一緒に夏ちゃんとこ行ったやん。ふたりで。夏な、いまくらいすっごい暑いとき」

「あのときはさあ、お母さんが胸にシリコン入れるとか入れへんとか言うて大騒ぎして、ほんで今回は夏ちゃんかいな。もう、頼むできょうだい!」


電話を切ったあと、夏子は逢沢に別れを告げたこと。編集者の仙川諒子が病気で亡くなって20日経っていたこと。この夏に、いろんなことがあったんだと思い返し、そんな夏の白さを見つめていました。


緑子の誕生日、夏子は大阪へ。その日の夕方の約束の時間まで、まだ時間がありました。夏子は、昔、暮らしていた港町に行きました。


昔、夜逃げしてから三十年以上の月日が経っていました。

母と父と巻子と四人で住んでいた家は、どうなってるんやろうと思った。


住んでいたビルは今もありました。その階段に座りこんで、胸の中の息を吐きました。そのときに、携帯電話の音が鳴ったのでした。


逢沢潤でした。

「逢沢さん、わたし、すごいびっくりした」

「でも僕も、びっくりしています。
出てもらえるかどうか、自信がなかったので」


逢沢は三十分だけ時間をもらえないかと言いました。


逢沢は緑子の誕生日に大阪に来るとわかっていたので、実は大阪まで来ていたのです。東京へとんぼ帰りするかもしれないと覚悟しながら・・・


逢沢と夏子は、大阪の港町を歩きながら話をしました。

「善さんと、別れたんです」


観覧車が見えました。

「うえのほうから」 

 わたしはつぶやいた。

「ここはどんなふうにみえるんかな」


ゴンドラがゆっくり上昇してゆきます。
2人は向かい合わせに座りました。


逢沢は育てのお父さんと、よく観覧車に乗りました。


お父さんは観覧車に乗ると、決まって宇宙探査機
ボイジャーの話を逢沢にしました。

『つらいときはボイジャーのことを思い出せ』


ボイジャーはずっとひとりで真っ暗な光のない宇宙空間を飛び続けているんだぞって。人間の歴史なんか宇宙に比べたらほんの一瞬だって。


生きていたら厄介なことがあって、その中で泣いたり、笑ったり、それも宇宙の中では一瞬。そう考えたら元気出るだろう!って

「夏目さんに会って、気づいたことがあります」

「僕がずっと思っていたのは、ずっと悔やんでいたのは、父に ━ 僕を育ててくれた父に、僕の父はあなたなんだと、そう言えなかったことが」

わたしは逢沢さんの顔を見た。

「父が生きているあいだに本当のことを知って、そのうえで、それでも僕は父に、僕の父はあなたなんだと ━ 僕は父にそう言いたかったんです」

わたしは逢沢さんの隣に移動して、肩にそっと手を当てた。


かたかたと音をたてて、ゴンドラは地上に近づいてきました。

夕映えにそっと背中を押されるように、わたしたちはゴンドラのドアをくぐって昇降台に降りたった。

深く息を吸い込むと夏の夕暮れが肺を満たした。




9月の半ばに、夏子は善百合子にメールを出して、会って話をしたいと伝えました。


夏子は公園で百合子と話をして以来、ずっと考えていました。恐ろしいこと、とりかえしのつかないことをしているんじゃないか。身勝手なひどいことをしているんじゃないか。誰だって望んで生まれてくるのではないから。


本気でそう考えたのは、話をしてくれた人が百合子だったということ。夏子は、善百合子と会い、喉の奥から声をふりしぼるようにして言ったのでした。

「善さんだったから」


夏子は百合子に、間違ったことをしようとしているかもしれないし、とりかえしのつかないことをしようとしているかもしれないと言いました。


そして

「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」


夏子は善百合子にそう言ったのでした。


百合子は

「生まれてきたことを肯定したら、わたしは
 もう一日も、生きてはいけないから」


夏子は善百合子を抱きしめたかったのです。

でもできなかった。

ただ頷くことしかできませんでした。

「どうしてあなたが泣くの」

「おかしなことだね」

「うん」

「おかしなことだね」





【出典】 

「夏物語」 川上未映子 文藝春秋


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