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「大河の一滴」 五木寛之
「人はみな大河の一滴」ふたたびそこからはじめるしかないと思うのだ。」
「大河の一滴」 五木寛之
五木寛之さんは、この本の中で
「人はみな大河の一滴」
であると語っています。
それは小さな一滴の水の粒にすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと、川の水を眺めながら私にはごく自然にそう感じられるのだった。
(中略)
私たちはそれぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがて海に還る。母なる海に抱かれすべての他の水滴と溶けあい、やがて光と熱に包まれて蒸発し、空へのぼっていく。そしてふたたび地上へ。
人は生まれながらにして、「生老病死」という重い枷をはめられて生まれてきます。
故に
五木さんが最近、本気で思うようになったと記している空想の物語があるといいます。
それが、人間は「大河の一滴」であるというストーリー。
人が死ぬということは、生命の海に還り、ふたたび空にのぼっていき、雲となり露となり、やがて雨になって地上への旅が始まる。
人は宿命づけられています。
老いること。
病を抱えていること。
いつか必ず別れること。
人間とは哀しいものだと。
残酷なものだと。
しかし、その中で
私たちはときとして思いがけない小さな歓びや、友情や、見知らぬ人の善意や、奇跡のような愛に出会うことがある。
勇気が体にあふれ、希望や夢に世界が輝いて見えるときもある。
人として生まれてよかった、と心から感謝するような瞬間さえある。
皆とともに笑いころげるときもある。
その一瞬を極楽というのだ。
極楽はあの世にあるのでもなく、天国や西方浄土にあるのでもない。この世の地獄のただなかにこそあるのだ。
極楽とは地獄というこの世のなかにキラキラと光りながら漂う小さな泡のようなものなのかもしれない。
五木さんは、自殺を考えるところまで追いつめられたことがあるといいます。
そこから立ち直ることができたのは、この世はもともと哀しいものであり、残酷なものであると思い返すことができたからだそうで、これはマイナス思考ではないと語っています。
日々の暮らしのなかでも、一瞬、そのことがたしかに信じられる瞬間がある。それが極楽である。
しかし極楽の時間だけが長くつづくことは、ほとんどない。
一瞬ののちには極楽の感動は消え、ふたたび地獄の岩肌がたちあらわれる。
現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還(ゆきき)しながら暮らすことだ。
五木さんは、「今はそう覚悟を決めるしかないだろう」と。そう考えると目の前が少し明るくなってきたと語っています。
そして
「人はみな大河の一滴」
ふたたびそこからはじめるしかないと思うのだ。
巻末の解説で松永伍一さんが、核心を突く言葉を書いており、まさに「大河の一滴」とはそのとおりではないかと、五木寛之さんの考えを端的に表したものであると感じました。
その言葉が
五木さんは「人は大河の一滴」と規定し、「それは小さな一滴の水の粒にすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと、
(中略)
一見して科学の原理を説いているかに思えるが、この宇宙の詩は五木さんの宗教観の根幹を示すものであり、見えない巨(おお)きな力によって生かされている人間を謙虚に見据える物差しである。
その「他力」によって生老病死を人は生き、そこにもたらされる慈悲をありがたく頂戴するしかないではないか。おそらくこのことが『大河の一滴』の核を成すテーマであろう。
そこで、思い出した言葉があります。
映画「男はつらいよ」で、寅さんにむかって、甥っ子の満男がこう訊ねました。
満男 「おじさん、人間って何のために生きてんのかな? 」
寅さん「むずかしいこと聞くなぁ。なんつうかなぁ、ほら、ああ、生まれてきて良かったなぁって思うことが、何べんかあるじゃない、そのために人間生きてんじゃねえのか」
私たちはときとして思いがけない小さな歓びや、友情や、見知らぬ人の善意や、奇跡のような愛に出会うことがある。
その一瞬を極楽というのだ。
そんな一瞬を大切に心にしまい、辛いときには思い出してください。その一瞬が、あなたに勇気と力をくれることでしょう。
【出典】
「大河の一滴」 五木寛之 幻冬舎文庫
映画「男はつらいよ 寅次郎物語」