映画評 敵🇯🇵
筒井康隆の同名小説を『桐島、部活やめるってよ』『騙し絵の牙』の吉田大八監督が映画化。第37回東京国際映画祭にて東京グランプリを含めた3部門受賞。
大学教授の職をリタイアし、妻には先立たれ、日本家屋にひとり暮らす渡辺儀助(長塚京三)。
身の回りの生活を淡々と過ごし、時に気の許せる友人や教え子たちと晩酌を交わすなど、来るべきXデーに向けて完璧な日常を過ごしていく。しかし、書斎のパソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。
老いていくことは残酷だ。体が動かなくなったり、物忘れが激しくなりボケていくが、儀助の老い方は理想の老い方として描かれる。体を思うように動かせ、意識もハッキリとし、人との交流もある。『PERFECT DAYS』のような丁寧な暮らしと無機質なモノクロの映像が、儀助を安らかな死へと連れて行く。
しかし完璧な日常は「敵がやってくる」のメッセージを見たことで崩れ始める。教え子が庭の井戸を掘り返そうとし、別の教え子は大病にかかり、貸していたお金を持ち逃げされたかのように行きつけのバーが突如閉店する。亡き妻や北からの難民など見えるはずのない者が見え始め、現実か夢かの境目が分からなくなる。安心感を与えていたモノクロ映像が儀助を虚無の世界へと導く。
敵の正体について物語内で明確な答えは描かれない。と同時に、儀助が体験してきた事は、現実なのか妄想なのか、はたまた妄想と現実が混じり合った世界に生きていたのかすらも明確にはされずに物語の幕を閉じるため、観客個々の解釈に委ねられる。消化不良にも捉えられかねない不明瞭さは、儀助がこれまで抗っていた”老い”が酷く進行していた事の表れのように見える。
儀助の老いは、例え現実の出来事であったとしても、仮に妄想の中の出来事であったとしても、楽しかった思い出が負の思い出として裏返るという、両者共々救われない人生の幕引きとなる。特に本来外部が立ち入る隙のない妄想の中ですらも居場所がなくなってしまうのは、寝たきりや認知症以上の辛さが想像に容易く、『ファーザー』よりもタチが悪い。
また妄想の中では、どんな出来事も美化できる。丁寧な暮らしを送り、円満な夫婦生活を過ごし、大学教授として学生や教え子たちとの交流を楽しむ。しかし、物語内で描かれた現実は、夫婦円満でもなければ、慾情に塗れた蛮行の数々、カップラーメンで食事を済ませる見窄らしさ。儀助は既に妄想の中でしか居場所がない廃人なのかもしれない。”儀助にとっての敵”は、美化された楽しい思い出そのものであり、それらを見れなくなる”老い”自体を指すのではないだろうか。