映画評 ジョーカー🇺🇸
『バットマン』のヴィランとして名高いジョーカーの誕生秘話をホアキン・フェニックス主演、『ハングオーバー!』シリーズのトッド・フィリップスで映画化。原作DCコミックにはない映画オリジナルストーリーで描かれる。
「どんな時でも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸に、大都会で大道芸人として生きるアーサー。しかし、コメディアンとして世界に笑顔を届けようとしていたはずのひとりの男は、やがて狂気あふれる悪へと変貌していく。
社会的に失うものが何も無く、犯罪を起こすことに躊躇がない人を「無敵の人」と元2ちゃんねる創業者の西村博之が称した。ジョーカーことアーサー・フレックが辿った軌跡は、無敵の人になるべくしてなった喜劇であり悲劇と言えるだろう。
アーサーの境遇は悲惨そのもの。大道芸の仕事を馬鹿にされるだけでなく、仕事仲間からもおかしい奴と馬鹿にされる。仕事の失態でクビになってしまい、社会と自分を繋ぎ止めておくものがなくなる。さらに、アーサーの病気を治すために通っていた行政の支援が打ち切りになってしまい、専門的にアーサーを助けてくれる逃げ場が無くなる。アーサーがアーサーでいるための社会的繋がりが、悉く潰されていく。
アーサーには有名コメディアンになる夢や家族である母親との暮らしに微かな希望を見出している。しかし、崇拝していたコメディアンから公開処刑をくらい、母親の話は全て嘘であった事が明かされる。さらに、蓋をしていた苦い思い出が蘇ったことで、自分を守るための笑顔に隠された真の姿・ジョーカーへと変貌を遂げる。
善人であろうと、社会に溶け込もうと努力するも、アーサーの身に降りかかる一つ一つの出来事が、アーサーの倫理観を潰していく。アーサーではなくジョーカーとしてしか生きれなくなってしまった悲劇という見方もできるが、アーサーがこれまでの鬱憤を晴らす事ができ、自分自身を解放させるカタルシスとしての喜劇なのだ。
アーサーをジョーカーへと変えた大きな要因は、経済格差による富裕層と貧困層との分断であろう。
マイケル・サンデル著の『実力も運のうち 能力主義は正義か?』では、格差が広がっていく要因が、努力して成功した者や社会的意義のある行為をしている者、いわゆる富裕層に対する優遇にあると説く。その結果、富裕層は貧困層を努力しない愚か者であり、社会の癌であるかのような態度を取るという。
ゴッサム・シティの市長選に立候補したトーマス・ウェインの態度が、まさしく貧困層を見下し分断の要因を作る。民衆を顔も出さずに主張する者をピエロと軽蔑する発言こそ、「お前らはここのステージに上がってこれなかった愚か者」と言ってるのと同じ。
仮にトーマス・ウェインが仮に市長になったとしても、富裕層への目配せで終わり、ゴッサムが変わらないであろうと予測できる。トーマスはテレビのスピーチでこそ何とかすると言いつつも、具体的な行動は何もしていない。したのは、アーサーに殺されたウェイン産業の社員らに対するお気持ち表明。アーサーのような道端で倒れ、生活苦に陥っている者への目配せは何一つしていない。富裕層への視線は甘く、貧困層への視線は厳しい差別意識を反映させている。
デヴィッド・グレーバー著の『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』の中に、労働環境が最悪かつ低賃金であるものの「世の中に必要とされている」自負が労働者の中にある仕事を”ショット・ジョブ”と呼ぶ概念がある。ようは、労働によって自分自身の存在が社会に承認されていると思える仕事だ。
しかし社会に必要とされながらも、1番社会の皺寄せが来やすい仕事でもある。『ジョーカー』では、予算カットの影響で福祉施設の閉鎖やゴミ収集の機能不全を起こし、市の治安は悪化をたどり、病気の人は的確な治療を受けれないような最悪の状態に陥る。
当然、労働によって承認されてきた人たちは行き場を失うことになる。行政によって運営されてきた仕事及び、行政と取引していた民間企業からすれば、行政の都合で予算カットしているにも関わらず、大衆をピエロと呼び、努力不足であると煽るのは炎に油だ。ジョーカーの正体は、単純に社会から承認され、静かで平和な暮らしをしたいだけなのだ。
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