映画評 哀れなるものたち🇬🇧
スコットランドの作家アラスター・グレイの同名小説を『ロブスター』『女王陛下のお気に入り』のヨルゴス・ランティモス監督によって実写映画化。ベネチア国際映画祭で金獅子賞、アカデミー賞主演女優賞含む4部門受賞。
自ら命を絶ったベラ(エマ・ストーン)は、天才外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)によって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。大人の体を持ちながら新生児のように過ごすベラは、「世界を自分の目で見たい」という強い欲望の基、放蕩者の弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)に誘われて、大陸横断の旅に出る。
ベラが子供の脳みそを移植されて蘇生し、精神的に大人になるまでの旅路を通じて、人間社会に存在するマナーやルール、世間体などの「お約束」が、性役割の押し付けや偏見に満ちていることを彼女の視線を通じて描かれていく。
その根幹にあるのは、女性は男性に選ばれる立場。つまりは、男性の見栄え良く見せるためのアクセサリーという表現が適切だろうか。他の男性との交流をよくと思わず、正欲よりも理性及び勉学に目覚め、自らの力で自立しようと成長するベラをダンカンは非難する。彼の中にある女性は無垢であるべきという偏見だ。
また、ベラが自殺するに至った要因は妊娠したからだ。アクセサリーとして男性に使えながら、母としての性役割を押し付けられる。まさしく自由がない。子供として新たに生まれ変わったベラの第二の人生は、性役割から解放されるための戦いの物語でもあるのだ。
本作に登場するキャラクターたちは、ハッキリと言って仕舞えばクズ野郎だ。背景美術や個性的なキャラクターデザインによって守られており、ベールを脱げば皆、「哀れなるものたち」といえよう。
ベラを蘇生させたバクスター医師は、自身の好奇心を満たすために、死んだものを生き返らせフリークを誕生させる行為に、倫理観を疑わざる得ない。しかも博士自身も父親から虐待に近い人体実験の実験台にされたにも関わらずだ。ベラを守るために屋敷から出さなかったと博士は語るが、彼の中にも社会からの影響から遠ざけ、無垢さを求めていたことから『籠の中の乙女』の両親を放物とさせられる。
弁護士のダンカンは上記した通り。職業や財産のように、自信の優位性を周りにアピールする、または自尊心を満たすために女性をラブドールとして扱う。だが、取り繕っていたものが剥がれ、手元に何もなくなった彼の姿は情けなく映る。男社会で生き抜き、1人でも多く優位に立つために、周りの視線を気にしなければならないのかもしれなかったと思えば、ある意味社会の被害者なのかもしれない。
ベラも哀れな人物の一人であることも忘れてはならない。彼女が大人になるにつれて、意識高い系に目覚めてしまう。しかもタチが悪いことに、正義のためであれば、何をやっても良い自己中心的となってしまう。人の全財産を勝手に寄付し、社会主義に目覚め、ラストでは倫理観が欠如した復讐を遂げる。しかも恐ろしいことをしている自覚がなく、彼女の周りの人たちも無条件で肯定してくれる裸の王様っぷり。負の連鎖が続いていく金鱗が見えてくる。
ベラの旅路や人生を通じてフェミニズム賛歌を描いたと思いきや、社会の成り立ちや男女関係なく抱えている人の強欲さを皮肉る全方位にパンチを与える映画なのだ。