映画評 落下の解剖学🇫🇷
『愛欲のセラピー』のジュスティーヌ・トリエ監督による、仲睦まじい夫婦の真が裁判を通じて解剖されていく法廷ミステリー。カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドール受賞。アカデミー賞4部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。
人里離れた雪山の山荘で1人の男性が転落死する。その死には不審な点も多く、前日に夫婦ゲンカをしていたことなどから、死んだ男性の妻であるベストセラー作家サンドラ(サンドラ・ヒュー)に殺人容疑がかけられる。息子に対して必死に自らの無罪を主張するサンドラだったが、事件の真相が明らかになっていくなかで、仲むつまじいと思われていた家族像とは裏腹の、夫婦のあいだに隠された秘密や嘘が露わになっていく。
有名人が裁判をする際「真実を明らかにします」と宣言するが大きな間違いだ。その仕事は基本、警察など立法機関が行う。無実を証明する物的証拠が無い場合は、”真実相当性”の観点から、間接証拠を用いて、陪審員に良い印象を持たせないといけない。
被告人もそうだが、警察・検察側も同じ。本作では殺人を断定できるような物的証拠は無く、被告人を起訴するために、彼らもまた状況証拠からストーリーを練り上げる。
真実がどちらに傾くか分からない場合、人は客観性の高い物を重要視するが、根幹にあるのは主観だ。一人一人が抱いてる背景や差別意識、道徳的・倫理的価値観によって、示された証拠を主観的に解釈する。見る人によって映画の感想が違ったり、陪審員によって判決結果が異なったりするのはそのせいだ。完全なる客観性の元の判断などない。本作は、1人の女性の裁判を通じて、我々観客の思考すらも解剖されていく。
裁判を通じて見えてくるのは、サンドラの人間性と歪な夫婦関係。サンドラ、弁護人、検察などそれぞれの立場から、黒澤明の『羅生門』のように、幾つもの真実が浮かび上がる。
見えてきたのは、サンドラの”有害な男らしさ”の一面。夫が録音していた夫婦喧嘩。息子の事故・障害を夫に責任を押しつけ、その間不倫関係を堪能する。ベストセラーも夫のアイデアを盗用したもの。夫婦バランスは平等ではない。間接証拠しかない分、人間性から被疑者であると検察側から疑われても否定はできまい。
冒頭、夫婦宅にやってきた大学生がサンドラにインタビューする際、夫が50セント『P.I.M.P』を大音量で流して邪魔をするシーンは、彼の細やかな怒りと抵抗。同時に描かれたテニスボールが階段を下り落ちるシーンは、冷え切った夫婦関係と旦那の運命が示唆される伏線だ。
一方で、弁護側は先進的なフェミニストでありながら、異国の地で苦しむ同情の余地がある人という側面から真実を練り上げる。家事は分担しないことや不倫関係は同意のもとであると、多様性社会における夫婦の新たな形というべきか。また、事故以来、子育てには積極的に参加してるようにも見える。裁判中、自分の意見を伝えるためにドイツ語で話すシーンから、言語や文化に苦しんだ背景が見えてくる。
夫の立場に感情移入すれば、サンドラは社会的な成功にあぐらを描いた家父長制の体現者であり、サンドラの立場に感情移入すれば、リベラルで先進的な家庭の妻が、嫉妬心に狂った夫を持ったが故の悲劇と捉えられる。はたまたそれ以外かもしれない。
夫婦関係を誰よりも客観的に見てきた息子のダニエルの証言が、裁判結果の決定打となる。彼もまた、状況証拠及び証拠にはならない記憶の中から「こうあって欲しい」願望をストーリーとして練り上げ真実とする。しかも視覚障害を持ち、耳で聞くしか情報処理ができないからこそ想像を膨らませる。彼の立場は、我々観客に一番近いかもしれない。
裁判から一年経ってからの彼の証言は、「これ以上家族を傷つけさせない」意思と逞しさを感じれる。だがラストシーンでは、本当の真実は依然と藪の中である恐ろしさにハッとさせられる。そして、裁判は真実を明るみにするものではないのだと。