1. 自由民主主義への疑義照会(「自由」を考え直す)
ウィンストン・チャーチル氏が
民主主義は実際、最悪の政治形態と言えるだろう。これまで試みられてきた、それ以外の全ての政治体制を除けばの話だが(Indeed it has been said that democracy is the worst form of Government except for all those other forms that have been tried from time to time)
と語ったのは、1947年のことだったそうだ。それから半世紀以上経った現在、もし現代の民主主義国家を同氏が眺めたら、なんて妄想は尽きない。ただ現代に残された自分に許されるのは、同氏が自由主義・資本主義への言及を避けたのは、恐らく意図的なものではないか、と考えることくらいだろう。
現代において民主主義に自由主義が組み合わされることが自明のように思えるが、自由民主主義は当初から自由主義の個人主義と、民主主義の多数性が導く集産主義との妥協の産物だった。自由主義者のハイエク氏は、
保守主義・自由主義・社会主義は、この順番に右から左に並ぶのではなく、それぞれが三角形の頂点にあるようなものだ
と称したという。西欧の王権時代においては、伝統を守る保守主義と政府権力を制限し個人の自由を拡大する自由主義との間に対立があり、保守的な君主制の崩壊と共に自由主義者の導いた民主主義が導入され、自由民主主義が産声を上げた。とはいえ、その後も保守主義は残存し、さらには過激な改革を掲げる社会主義が勃興し、三つ巴の戦いが幕を開けることとなった。そこからさらにさまざまな政治的姿勢の分化があるが、自由主義と民主主義は本来別個の概念だったことには変わりが無い。
この自由民主主義に対し、共産主義国家である中華人民共和国がアメリカに対する「戦狼」姿勢を呈して久しい。一方では自制の声もかの国の中で響くというが、いずれにせよ鄧小平氏が唱えた「韜光養晦」:才を隠している間に力を内に蓄えるという外交方針は、遥か彼方へ消え去った感がある。そこで唱えられるのは、中国式の共産主義の勝利であり、そして自由民主主義の敗北である。そしてこの戦浪は、何度も燃え上がった民主主義を強権にて抑え込もうと躍起の香港を筆頭に、台湾やオーストラリア、インド、そして日本にもその牙を向けつつある。
実際のところ、自由民主主義を掲げる国においても、その理念は機能不全が疑われる事態に追い込まれている。アメリカのトランプ大統領に限らず、COVID-19流行前に自由民主主義を掲げる各国へ襲い掛かったポピュリズムの氾濫は、国境を越えた現象という意味で、またそれぞれの国の内側から沸き上がったという意味で、自由民主主義そのものへ投げかけられた疑義照会とも言うべき現象ではないか。とはいえ皮肉にもポピュリズムが人命を救うには無力だと暴かれて以降、世界的にポピュリズムの波はある程度退潮した感がある。ドイツではポピュリズムの躍進に政治的に追い詰められていたはずのメルケル首相が、2020年のクリスマスには偉大なスピーチで以て人民を鼓舞していた。
クリスマス前に多くの人と接触し、その結果、祖父母と過ごす最後のクリスマスになってしまうようなことはあってはなりません
とは、メルケル氏のまさしく渾身の言葉であった。
とはいえポピュリズムはまだ猛威を振るう機会を虎視眈々と狙っており、アメリカ議会にはついにポピュリズムが文字通り「直接侵入」する事態となった。ここに至り、SNS各社はようやく言論の自由を現職アメリカ大統領から奪うことを決めた。自由民主主義の代表たるべき者の自由が制限されることは、「自由」という概念の在り方が否応なく問われる事態だ。そしてトランプ大統領にとっては皮肉なことだが、彼が撤廃しようとこだわった「通信品位法230条」:インターネット企業がホストするコンテンツに対する責任から企業たちを保護する目的の法律が、結局のところコンテンツに対する責任を不明瞭にし、民主主義を脅かす原因になりかねない不合理さを、トランプ氏本人が身を以て示してくれたこととなった。言論のプラットフォームを提供するSNS各社は、議論の場において自由を制限する責任を引き受ける前例を抱える羽目になった。
一方で、SNS各社により選挙で選ばれた公人の言論の自由を制限することに反対する声が、ドイツ・フランスから上がっている。実際、法的根拠もなく民間各社が選挙で選ばれた公人の言論の自由を制限できるというのは、由々しき事態ではないか。しかしながら先述の通りトランプ氏本人が、既に「通信品位法230条」改正という形での規制の必要性を訴えていた。規制に反対したSNS各社は、いざ自由民主主義の代表たるべきアメリカ大統領の自由を制限する事態にあたり、自ら法律の保護を反故にしたツケを、民主主義を脅かしかねない重大な決定の責任を負うことで支払わされる羽目に陥った。対立することも多かったメルケル氏とトランプ氏が、最後の最後、インターネット企業への規制の在り方で軌を一にするとは。
もちろんトランプ氏は議事堂への暴徒の侵入を許した扇動者に過ぎず、もはや当人に自由を代表する資格はない、という意見もあるだろう。実際、功利主義で有名なジョン・スチュアート・ミル氏が唱えた「危害防止原理」、つまり
人間が個人としてではあれ、集団としてであれ、誰の行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである
という原理に照らし合わせば、議事堂侵入がもたらす人的被害はもちろんのこと、破滅的な民主主義へのダメージは、どうやっても容認できない。しかしトランプ氏本人の民主主義軽視はそもそも以前から提示されており、このような結末が招かれる前になにか出来ることは無かったのだろうか、と悔やまれる。なにせ選挙結果をひっくり返そうとジョージア州の州務長官へ票の改竄を要請したともとれる働きかけを行った人物だ。民主主義を擁護すべき国の大統領が、自ら進んで民主主義を足蹴にしようとするなんて、いったいどんな悪質なジョークなのだろうか。
同時に検討するべきこととしては、政治家の「映し方」が自由民主主義に与える影響だろう。ヴァルター・ベンヤミン氏は
市民の民主主義の諸形態が現在直面している危機は、統治者をどのように展示するかということにとって決定的な諸条件が直面する危機をも含んでいる。(中略)録音・撮影機器の刷新によって、演説の最中に無数の人たちがこの演説者を聞くことができるようになり、またそれほど時をおかずして、無数の人たちがこの演説者を見ることができるようになった。それとともに、政治に関わる人間をこういった録音・撮影機器を前にして展示することの重要性がひときわ際立つことになる。(中略)統治者がそうであるように、これらの機器を前にして自分自身を展示する人の機能こそ、まさに変化してゆく。この変化の方向は、それぞれが果たす独自の役割とは関わりなく、映画俳優と統治者の場合で変わりはない。それが目指しているのは、特定の社会的条件のもとで、審査可能な、さらには〔機械によって〕引き受け可能なパフォーマンスを展示することである。それによって、あらたな選り抜きの人々が生じることになる。それは器械装置を前にして生まれるより抜きの人々であり、そこからスターや独裁者が勝利者として頭角を現すこととなる
と『技術的複製可能性の時代の芸術作品』で言及した(『ベンヤミン・アンソロジー』【河出文庫】に収録)。ここで念頭に置くべきは、トランプ氏は『アプレンティス』で「You’re fired!」という決め台詞と共に脚光を浴び、そのままメディアに持て囃されるようになったということである。大統領時代こそメディアとの対決姿勢が鮮明になったが、それすらもトランプ氏が世界各国の液晶画面・音声機器をジャックし続ける手助けとなった感は否めない。
ジャーナリズムの意図は、出来事が読者の経験にかかわってくる可能性がある領域から、出来事を遮断しておくことにある
とヴァルター・ベンヤミン氏は『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』(同書収録)で語った。移ろう時事性こそがジャーナリズムの特徴だ。だからこそ時代の表層を上滑りし、この自由民主主義の危機を招いたのだろう。
実際のところ、恐らく数多くのメディアがトランプ氏や共和党議員、そして議事堂に侵入したアメリカ国民たちを非難し始めた。しかしこの自由民主主義が変遷し得る事態は、それだけで解決可能な問題なのだろうか?この事態は、果たしてどういう歴史から導き出されたのだろうか。眼前に広がる自由民主主義の危機を、そしてトランプ政権というポピュリズムの危機を招いた底流には、どんな現実が蠢いていたのか。それを直視しなければ、ここからどうやって自由民主主義が立ち直れるのかという課題への解決策も見えてこないだろう。ただでさえ戦浪外交に燃える中国が自国の恐怖政治を称賛し、他国に圧迫を加える時代なのに、その脅威に対抗するべき自由民主主義がその旗手の懐で断裂の危機を迎えるという悪夢。この夢は、我々が真摯に向き合わなければ、決して解けない。
次期大統領たるバイデン氏は、場合によっては多くのメディアにおいても、議会の侵入者たちがそうであってもアメリカ国民の一員であること、そして彼らをそのような行為に追い立てたのはアメリカ政治であることを、無視している。そうである以上、自由民主主義の断裂は根深く続くことになるだろう。なぜならポピュリズムが、トランプ氏を大統領まで押し上げた力がやってきたのは、下層中産階級の貧困率上昇という現実を反映したものなのだから。Black Lives Matter運動を取り上げるなら、この下層中産階級の悲劇にも同情を示さないなんて、それこそ「不公平」な次期大統領ではないか、とBBCのインタビューを見ながら独り言ちる。
さらにバイデン氏にとって皮肉めいたことに、この自由民主主義の危機を招いた一人として、Black Lives Matter運動に従事したジョン・アール・サリバン氏が逮捕された。この人物は暴動の只中でそれを煽り、そして実際に議事堂へ乱入したことで、FBIに逮捕されるに至ったという。扇動者のトランプ氏を排除しても、アメリカ政治はまだまだ不透明な闇に覆われていることが、図らずも証明された形ではないか。民主党が応援した勢力すら政治の危機に加担することで、ここにさらなる混迷が予期されることとなった。そしてこのカオスは、バイデン次期大統領にとって難しい舵取りを要求することとなるだろう。なぜなら右翼と左翼がお互いを非難し、より断裂が深まる未来が、既に目に見えているからだ。
トランプ大統領運営が、その人種差別的要素が、Black Lives Matter運動を引き起こす一つのきっかけとなったのは事実だ。しかしオバマ政権時代、つまりバイデン氏が副大統領として取り仕切る一員だった頃の政治も含めたアメリカ政治が、白人中産階級の貧困問題を含む悲哀を救えなかったことから、トランプ氏を大統領に押し上げる原動力が生まれたことを考慮すると、既にオバマ政権時代から今日の自由民主主義の危機が生じる機運は形成されていたこととなる。この白人貧困層の悲哀から、自由民主主義への疑義照会を、特に自由主義の問題点に関して議論を深めていきたい。