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明治政府の宗教改革「廃仏毀釈」が頓挫した背景に、あの宗教の存在
歴史の授業で「廃仏毀釈」という言葉を習った覚えのある方は多いのではないでしょうか。
廃仏毀釈についての理解は、「仏教が廃絶され、日本の宗教は神道に一本化された」になるでしょうか。
そんなことを言うと「ちょっと待って、仏教って廃止されてないでしょ?だってお寺は今も残ってるし、仏像だったあるし」という疑問が湧きますよね。
廃仏毀釈により、日本で仏教が弾圧されたのは事実です。
ただそれもほんの数年の出来事で、明治政府が方針転換したことで仏教は再び保護されるようになりました。
政府の方針転換って、一体何があったのでしょうか?
そもそも廃仏毀釈とは?
廃仏毀釈は、明治政府が祭政一致と神道国教化を推進するために掲げた宗教政策です。
その中身は、「神仏分離」。神道と仏教を切り離すという考えです。当時は神社とも寺院とも区別のつかない場所に神道の神様と仏教の仏様が同居する「神仏習合」が定着していました。廃仏毀釈ではそれを廃止し、神道に習合する仏教施設やもろもろの設備、道具類はことごとく排除するようお触れを出したということです。
廃仏毀釈と言うくらいだから仏教を根絶させるかのように聞こえますが、ちょっと違うんですね。
1868年(明治元年)3月13日(旧暦)の太政官布告に「神武創業時の祭政一致に復するため、神祇官を再興し……」といった趣旨のことが書かれています。
明治政府の大きな方針は「復古主義」です。天皇が政務を執った天皇親政時代の官僚機構に「神祇官(じんぎかん。「かむつかさ」とも)」という職位があり、朝廷の祭祀を司りました。
律令制の奈良・平安時代は政治に宗教的な考えや技術、様式を取り入れる「祭政一致」が主流だったんですね。
政治の実権を再び朝廷に戻す復古主義政策の一環として廃仏毀釈が奨励されたことから、神社境内にあった仏堂は壊され、仏像は撤去、仏具も焼却される「仏教排撃運動」が各地で巻き起こることになります。
神道を国教化するには、それまでみたいに神と仏が並立になる関係は都合が悪かったのでしょう。
ターゲットにされたのは神社の境内にある仏堂や仏像で、これらは徹底して破壊・撤去されたと言います。また、寺院で「権現」「明神」といった神号を用いることも禁止されました。神社の社僧や別当は還俗に追い込まれたとのことです。
『絵が語る知らなかった幕末明治のくらし事典』(本田豊著 遊子館)によると、河川の川下の村々には「明治時代のはじめに川上から仏像が流れ着いたとか、仏像の頭だけが流れてきたとかの伝承」を由来とする神社や観音堂があるとのことです。
宗教に寛容と言われる日本でも、かつてこのような凄まじい歴史があったとは、ちょっと驚きですね。
仏教の復活はキリスト教のおかげ?
全国各地で激しく行われた神仏分離・仏教排撃運動は、わずか数年で収まることになります。
この理由は、明治5年(1872年)4月に明治政府(教部省)から通達された「三条の教則」にあるといわれます。
この三条の教則とは、「敬神愛国」「天理人道」「天皇奉戴朝旨遵守(天皇を奉戴し命令を守る)」を推奨するもので、国民教化策として国民を教導する指導者たちに通達されたものです。
国民を教化する指導者の中には僧侶も加わることになり、これと連動する形で廃仏毀釈運動も終息に向かいます。
先ほども引用した『絵が語る知らなかった幕末明治のくらし事典』では、国民教化のための三条の教則が通達された背景に、「キリスト教の脅威」があるとしています。
日本は豊臣秀吉のキリシタン禁令以来、300年にわたりキリスト教の布教活動を禁止してきましたが、欧化推進の流れの中でついに解禁となり、明治6年2月よりキリスト教の布教が認められるようになったのです。
キリスト教解禁の背景には、イギリスなど欧米諸国からの強い要請がありました。不平等条約を改正したい日本政府としては、多少の譲歩はやむを得ず、バーターにしたい思惑があったと想像されます。
三条の教則で廃仏毀釈運動が下火になり、宗教界わいに平和が戻ったかと思えば、そうでもありません。仏教の次はキリスト教への風当たりが強くなったのです。
しかもいちばんキリスト教を敵視したのが仏教徒だったと言います。真宗などはその急先鋒で、東西両本願寺が積極的にキリスト教排撃運動を指導したといい、対立が激化する外国人宣教師と僧侶の姿を描いた新聞風刺画もあるくらいです。国教である神道も、かつて排斥した仏教と手を組んでキリスト教攻撃に回りました。敵の敵は味方。昨日の敵は今日の友。道徳を説き救いをうたう宗教の世界にもこの論理は通用するということでしょうか。
それにしても彼らに国民教化の役がどれくらい務まったのか、気になるところですが。
明治政府は一体何がしたかったのか
明治政府が祭政一致を掲げ、その手段として廃仏毀釈を奨励したのは、天皇と国家に威厳をもたせ、国民意識を統一したい思惑があったのではないでしょうか。
戊辰戦争に勝利して反乱軍を鎮圧したとはいえ、明治新政府の権力基盤は非常に脆弱で、いつ瓦解してもおかしくない危うさをはらんでいました。君主の明治天皇もまだ16歳という年少で、国民統合の力がどれだけあるかも未知数です。
これから日本全体が一つにまとまる中央集権国家を確立するためには、国民が全幅の信頼を置く政府が必要不可欠であり、そのシンボルとして「祭政一致の神格化された天皇」を国家の中心に据えることは、国民の忠誠心と帰属意識を高める最上の方法であるようにも思われます。
ではなぜ明治政府が祭政一致を取り入れてまで日本国家の統一に固執するかといえば、欧米列強の侵略を阻止するためでしょう。一つにまとまらないと欧米には絶対勝てない意識が強く働いていたのは間違いありません。
廃仏毀釈から仏教温存へと回帰したのも、キリスト教進出が蟻の一穴になって侵略を招くことを怖れたからだと思います。三条の教則が出たから仏教が保護されたのではなく、仏教をキリスト教の障壁にするために三条の教則が出されたと邪推したくもなります。
とまあこんな感じで、私の場合、廃仏毀釈について考えるとしたら、それによって起こった現象面だけを見るのではなく、なぜそのような動きになったのか、動きをつくった側の思惑とその背景までも注視するようにしているので、つい脱線してしまいます。長文読んでいただきありがとうございました。