自分と世界の境目はどこか
こういう話がある。
田んぼには稲がある。稲は収穫されて米になる。我々は米を食べる。米は我々の身体を作る細胞になる。ならば、いま目の前にある稲は「将来の自分の一部である」といえる。未来の自分の一部は、そこら中に転がっていることになる。
***
今回は、環境と自分の境目について考えたい。
世の中にある自然、その一部は、将来自分に取り込まれる。そしてやがては自分自身も朽ち果て、大地に還る。世界と自分の境目は、どこだろう。
多くの人は、「自分」を物理的身体的に把握する。
口の中にある唾液は「自分の一部」だが、それが外に吐き出された途端に唾という「汚いもの」になる。排泄物も同様。無意識的に、明確な線引きをしているように感じられる。
「自分」とは、大いなる流れの一部に過ぎないのではないか。
あらゆる生命が共存するこの世界の、ちっぽけな存在。しかし、ちっぽけなりの役割がある。ならばそれを全うしよう。そう思う。
宇宙の一部として、万物流転の一瞬一部として、この命を使い果たそうと思う。