生きるための遺書【書籍『トワイエ』を発売します】
「とはいえ、私たちは生きていかなければならない」
止まらない不景気。匿名の悪意。伝わらない感情、無責任な格言。終わらない戦争と果てのない孤独。救いのない満員電車。前向きなことばばかり光を浴びて、弱音や孤独は沈殿して。幸せになりたいのに、幸せの定義すら曖昧で。
とはいえ、
私たちはこんな世界で、
死ぬまで生きていかなければならない。
だから、
本をつくりました。
***
むかし、遺書を書いたことがあります。
あの頃の私は、今でも到底言語化できない、おそらくこれからも永遠に言語化できないくるしみと、ひとりでたたかっていました。
あれから、息をして吐きを繰り返し、心臓を急かして生きてきました。気づけば、大人と呼ばれるようになっていました。働いて、税金を収めて、敬語を使えるようになりました。病院も銀行も市役所も、ひとりで行けるようになりました。
それでも私のなかでは、救われないままの私がずっと泣いていました。いつも、暗がりで叫んでいました。
「私はこんなにも大丈夫じゃないのに、
どうしてそんなに、大丈夫なふりができるの。
ことばなんてなんの意味もない、
誰も私を見つけない、
私はずっと救われない。
ねえ忘れないで、私のことを忘れないで。」
私の声を聴きながら、私はまだ、私のことを救えていなかったのだと思いました。だから、なにをどれだけ書いても、くるしいままだった。誰かを救いたいと思うとき、その誰かは、まだ救われない自分自身でした。でも、救われ方がわかりませんでした。
私はずっと、私のことを救いたかった。過去の、未来の、現在の、すべての時間軸の私を。別の選択をして生きているかも知れない私を、あるいは、どこかで死んでしまったかもしれない私を。
全部の世界線の自分を、救いにいきたかった。どんな選択をしてどんな人生を歩んでいたとしても、どれだけくるしくても、あなたは大丈夫だと、私だけはあなたを抱きしめると、伝えたかった。
いつしかそれが、物語を書く理由になっていました。
***
私がネットで物語を発信し始めたのは、明日死なない理由がほしかったからでした。遠い未来は見通せなくても、相変わらず死にたくても、あと一日であれば、生きられる気がした。だから、書き残そうと思いました。18歳の終わり、春のバスタ新宿で決意しました。書いたものがすべて遺書になるなら、美しいものを遺してから死にたかった。
それから毎日、書いて書いて書き続けました。動けない昼も眠れない夜も憂鬱な朝も、匿名だらけの世界に、文章を発信し続けました。
ごちゃごちゃの世界で、言葉を見つけてくれる人がいました。名前も顔も知らない人から届くいいね。どこでどんな人生を送っているかもわからない、どんな感情による反応かもわからない。それでもたしかに、私の言葉を受け取ってくれる人がいました。この人に見つけてもらうために、書いてきたような気さえした。うれしかった。
けれど、いいねが増えるほど、視線の数が増えるほど、誰しもが本当にいいねと思っているわけではないと知りました。
いのちをかけて書いたものを、掃いて捨てられた気がすることもありました。不幸な私は愛してくれても、幸福を目指した途端、背を向けられることもありました。人生ごと否定された気がすることもありました。心を開いて話したことを、踏みにじられることもありました。どんどん人を信じられなくなりました。
傷つくたび、もう傷つかなくていいように、心の壁を分厚くしなければなりませんでした。繊細ということばを、すごく嫌いになりました。傷つくことで、誰かを加害者にしてしまうのが嫌でした。傷つく自分がいけない。繊細ゆえに人を傷つけるなら、感覚なんて全部なくなってしまえばいい。繊細讃歌なんてゆるされない。傷ついてしまうのなら、私の居場所はどこにもない。
だから、必死で傷つかないふりをしました。人のなかにいると動悸が起こるようになりました。それでも、へらへらと平気なふりをしました。こんなに書いてもまだ死にたいと思ってしまう自分は、こわれているのだと思いました。
錠剤をポカリで流し込む夜、四角い窓から差す月明かりがきれいでした。誰も私を見つけないのに、この世界で行方不明になることはできないのだと思いました。書くことが救いだったはずなのに、いつしか、書くことで得る傷がこわくて動けなくなってしまいました。
心が悲鳴を上げて、あるときから毎日発信をやめました。それでも、書きたくて書きたくて仕方なかった。書くことはやめられず、ひたすら、誰にも届かない物語をひとりで書き続けていました。
驚いたのは、毎日発信しなくても、私はちゃんと生きられるということでした。積み重ねた日々は知らぬ間に、私の生きる土台をつくってくれていた。
私にとって、物語をつくることはもう、生きることそのものなのだと思いました。人も世界もこわくて、自分を語ることもこわくて、日記もエッセイもこわくて、それでも感情があふれて仕方ない。伝えたい、かたちにしたい、そのために私ができるのは、物語をつくることだけでした。感情を、物語というかたちでしか表現できなかった。私にとってはそれが、生きることでした。世界と向き合うことでした。
悩んで悩んで悩むうち、私にとっての「救い」に、やっと輪郭が見えてきました。
私はずっと、思ったことを思ったまま、感じたことを感じたまま、表現して生きかった。
これだけのことが、ずっとずっと、できていなかった。そのまま表現するには、私はあまりにも弱すぎた。だから感情を押し込めて世界の顔色をうかがって、嫌われないよう振る舞って。それすら八方美人だと言われてしまって。
くるしかった。
誰にも、何も、表現できないのは、ほんとうにくるしくて、
生きているのか死んでいるのか、わからなかった。
このまま、救われないままでいいんだろうか、不幸に浸って、あなたには憂鬱がお似合いだと言われて、ずっと、くるしいままひとりで書いて、表現したいことを押し込めて、ずっと、ずっと、
いやだ。
私だって救われたかった。
書くことは救いであってほしかった。
世界に心を閉ざしたままではいやだと思いました。世界と向き合うことで、また致命傷を負うかもしれない、次はもう耐えられないかもしれない。それでも、私は私にできる方法で、世界を信じていたかった。
書いて、届けたかった。
物語を、つくりたかった。
私のなかで生まれた物語に、世界を見せてあげたかった。
大切に紡いだ物語に、この世界のきれいな夕景を見せてあげたかった。
ずっとくるしかった自分に、あなたは自由に表現して生きていいのだと、ゆるしたかった。
***
ずっと小説を書いてきて、気づいたことがあります。
小説は人生ではないし、人生は小説ではありませんでした。
私は、自分の人生を小説にしてやろうとは思いません。人生は人生として向き合わなければならないし、小説には小説として、いのちをかけていたい。
どれだけ物語を書いても、自分の人生から逃れることはできませんでした。私から生まれた物語たちは、私のそばにはいてくれるけれど、私の人生を肩代わりはしてくれませんでした。どんなペンネームを使っても、いくつ人格をつくっても、誰と別れても、どう足掻いても、私はどうしようもなく、私でしかなかった。
小説を書くことが楽しくて仕方なかったのに、いつしか私は、自分では表現できないくるしさを、小説家としての自分に背負わせてしまっていた。かなしいとかくるしいとかさみしいとか、そういう感情を、全部まかせてしまっていた。
ごめんね、あなたに全部背負わせてしまって、ごめんね。
私は私のまま、かなしんだり泣いたりしてよかったんだね。
本をつくることを通じて、私は、いくつもの私とやっと向き合えた気がしました。血を吐きながら書いていた私に、やっとすこしだけ触れられた気がしました。
「不幸な私しか、みんな愛してくれないんじゃないかな」と私は言いました。「大丈夫だよ、どんなあなたであっても、私があなたを愛しているよ」と私は答えました。
書いて書いて書いて書いた先に待っていたのは、私が背負うしかない、どうしようもなく愛しい人生でした。
死にたくても死にたくなくても、私たちはみんな、いつか死んでしまう。世界はいつだってどうしようもない。
それでも私たちは、美しさを見失わずに、人生をやっていかなければならない。
書くことは、すべて遺書になると思っています。
だからこれは、新しい遺書です。
生きている間は、更新し続けたいと思っています。
まだ捨てられない遺書も全部抱きしめて、私は生きて書いていきたいと思う。
あなたがどんな選択をしても、どんな世界線を選んでも、幸せであってくれるように。かつて救われなかったあなたにも、遠い未来にいるあなたにも、等しく救われる瞬間があるように。私は今生きられる人生を使って、書き続けると誓う。
いつかあなたに届く言葉が、救いという名前をしていますように。
見つけてくれて、ありがとう。手に取っていただけたらうれしいです。どうか、いい夜を。
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