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雑感『ナミビアの砂漠』
「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の草薙素子は、肉体を離れても犯罪捜査を続けていた。「CURE」の高部は「死の伝承者」として人間を超越しつつも、刑事の仕事を生き生きと続けていた。
果たして人間を超える者は、「仕事」と同一化してしまうのか。十全に「仕事」をするということは、それほどのコミットメントを必要とするのだろうか?
本作のカナも、前半は仕事する者として描かれ、終盤で無職となる。もちろん彼女の脱毛サロンでの仕事は、どう考えても自身のアイデンティティーを懸けるようなものではない。カナ自身、美容脱毛に対して、根本的な疑念、インチキさを自覚しながら働いている。生きるための手段として割り切っている。
一方で、彼女の変調が失職を機にしているのも確かだ。そのきっかけは、接客中に本当のことを、つまり「美容脱毛など意味がない」と口走ってしまったことだった。カナはそれを「ボーッとしていた」からだと言う。
では、ボーッとしていない、平常運転時のカナはどのように描かれていたか。さすがに美を司る職場であるので、カナも制服をまとい、髪もメイクもきちんとしている。大学生3人が来院したときは、直接接客はしないものの、先輩の後ろで澄ましている。
一方、施術の場面では客は目隠しをしており、カナの顔を見ることはない。カナもそれがわかっているので、ほぼほぼ能面のような無表情だ。「~よろしかったでしょうか」「~になります」といった敬語を駆使し、仕事をこなす。内心、「美容脱毛など意味がない」思っていたとしても、オートマティカルに仕事ができていればボロは出ない。カナもそう思っていただろう。しかし、なぜか本音が出てしまった。
彼女は一見、自由に野放図に無神経に自堕落に生きているようで、こと仕事においてはちゃんとやれていた。自分をコントロールできていた……はずだった。
*
カナがクビになったあとに心療内科を受診するのは、そういう意味でなかなか独特だ。
おそらく多くの場合、仕事をするうえで不調を覚えた者は、医師に「うつ病」や「適応障害」の診断書をもらって休職に至る(うがった見方をすれば、休職するために診断書を求めて来院する)。
カナは解雇されているので、診断書をもらう必要はない。それでも「今の自分は何かおかしい」「こんなはずではない」という思いが、病名というラベリングへの欲求につながる。結局、医師は「仕事を辞めているんだから、診断書は不要だろう」という結論に至る。そしてカナは、医師に紹介された心理療法士のもとを訪れる。
療法士との対話場面においては、ヒアリングの様子こそ直接的には描かれないものの、カナが自身の父親について述べたことが、認知行動療法を説明するうえでの一例として観客に開示される。
その前提となるカナの家族関係は、それなりに複雑なようだ。まず、カナには実家がない。母親は中国にいる。祖母は日本人なので、祖父は中国人で、カナの母は混血(ミックスルーツ)なのだろう。母は大学進学時に日本に来たとされ、その後、カナの父と結婚しカナを出産。何らかの事情で夫と別れ、カナを残して中国へ帰国している。
カナの母が大学留学していたことを、ハヤシの母は「優秀だったのね」と評する。対して劇中のカナは21歳として描かれるので、大学には通ったことがない。
学歴という文脈では、ハヤシ家のボキャブラリーである「インター(・ナショナル・スクール)」「学歴ロンダリング」も、カナにはピンとこない。
カナの母もどちらかというとハヤシ家サイドの人間であり、おそらくはカナの父もそちら側(インテリ?)なのだろう。こうした学歴や育ちを前提としたコミュニティーにおいてのカナの孤立は、キャンプ場のシーンで象徴的に描かれる。
とはいえ、カナと母の関係はまずまず良好なのだろう。映画の結末で無邪気に宴席からテレビ電話をかけてくるあたりに、それが示唆される(「ママを出して」と言っているのに画面に出ないのは、母親がスマホで撮っているからなのか? 「中国の大家族」に出戻った母というのも、カナにとって物理的にも精神的にも遠い存在なのかもしれない)。
対して、インテリ(?)の父親は日本人で日本にいるであろうにもかかわらず、カナと絶縁しているようだ。そしてカナにとって許すことのできない「何か」を犯し、それがわだかまりを生むとともに、カナの中絶への強い拒否反応へつながっていることが示唆される。
と、ここまで「さもありなん」と述べてきたが、こういった家庭の事情はぼんやりとしか示されない。心理療法士が注目するのも、個別具体的な事実よりは、父親に対する思いに含まれる「認知のクセ」のほうである。
ここでいう「認知」とは、「頭の中に浮かんでくる考え」と言っていいだろう。「認知のクセ」とは、ついついそのように考えてしまう「思考のクセ」ということだ。
カナは父親を「許せない」と思いつつも、「許すべきだ」「一人の人間として正しく接するべきだ」という考えにとらわれている。これは「認知のクセ」の中の「べき思考」に該当する。「べき思考」にとらわれていると、自身の「許せない」という考えにふたをしてしまう。「許せない」と考えてしまう自分を肯定できなくなる。
では、どうすればよいか。療法士は「頭の中で考えることは自由だ」「独り言を言ってもいいし、紙に書いて思っていることを表出してもいい」と伝える。
要は、頭の中に勝手に浮かんでくる自動思考をキャッチし、「私は父親を許せない、と思っている」と認めることから始めましょう、ということだ。そのうえで、ではそう思っている自分は、本当はどう考えたらいいか、どう行動したらいいか、適応的な思考や行動を自ら見出していく。それが認知行動療法である。
心理療法士はだから、カナに対してカウンセリングの通常のアプローチをしたにすぎない。ここから我々観客に見えてくるのは、カナ自身すらカナの考えていることが把握できていないということである。それは、病気であるとかいう以前に、人間であれば多かれ少なかれ当てはまることだ。自分の考えも、他者の考えていることも、完全には把握できない。それを前提にしかコミュニケーションは成り立たない。しごく妥当なデフォルト状態である。
その前提で、カナの失職の場面に立ち戻ると、「美容脱毛は意味がない」「情弱ばかりだ」という自動思考がそのまま表出しているとも考えられる。もちろん、社会的にはこれをやってしまうとアウトだ(相手に「ハゲ」「デブ」「ブス」と言ってしまうのと同じ)。しかし、認知行動療法的には、むしろいい傾向なのかもしれない。
療法士はヒアリングを通して、カナの「べき思考」の強さを推し量り、表れとしてはだいぶ問題があるものの、カナの中の自浄機能の始動を関知している。
とすると、カナが緊急的に自浄機能を発動させ始めたのはなぜか。以降はカナの身体性に着目したい。
本作のタイトル、「ナミビアの砂漠」は、ナミブ砂漠に設置された動物のための水場の定点映像から取られている。カナはそれをスマホ越しに延々と眺めているようだ。
エンドロールには、その動画がそのまま使われている。
水場にはオリックス(?)が1頭おり、ときに2頭になる。この映像が本編のアナロジーとするなら、1頭のオリックスは東京という砂漠に住むカナを表し、ときにハヤシなりホンダなりの生と交錯する、ということなのかもしれない。つまり、本編はカナの定点観測なのだと。
では、本編はカナのどんな生態を写していたのか。
注視すべきは、カナが河合優実に演じられていることだ。河合自身は長くダンスを続け、身体能力に長けている。対してカナはどうか。
まず、スマホ首ともいわれるストレートネック。それと連関して肩は内側に巻き、背中は丸い。この姿は冒頭の町田駅でのズームアップから始まり、ホンダの出張中に近所をペタペタと徘徊する姿(なぜか枝を拾う。袋小路で行き詰まる)に至るまで一貫している。
河合は本来の肉体性を離れて、カナの身体を演じている。その白眉は、ハヤシとのけんかだろう。「身体能力に優れない若い女性がふるう暴力」という演技が、河合の高い身体性を通して成立している(唯一、明け方の道路でカナが側転を披露する場面が、その仮定を打ち崩す)。
カナの身体能力が優れない根本原因も、劇中で端的に示されている。
まず第一に「食」に対する無関心さ。例えば、ホンダと同棲中にハヤシと外食する場面がある。カナは「私、〇〇きらい」に続けて、「なんか適当に食べて、何となくおなかが満たされる」といった旨のことをこぼす。実際、ホンダが手料理をこしらえていても、カナが冷蔵庫から取り出すのはハム(加工肉)やアイス(ジャイアントコーン?)だ。実家暮らしだったハヤシも自炊をしている気配がなく、同棲を始めてもカップラーメン(シーフードヌードル)をすすっている。
カナはホンダに「餌付け」されているときは、おそらくまともな食事をとっていたのだろう。しかし、カナは本質的に食に興味がない。「餌場」を出たカナは、自堕落に食べ、水を与えられる(なぜかホンダにもハヤシにも水を飲まされるシーンが出てくる)。
食生活の乱れ。過剰な飲酒と喫煙。不規則な睡眠。これらは身体とメンタルの不調の遠因となる。
一方でカナの若さは、これらをものともしない部分がある。劇中でカナは「かわいい」「肌がきれい」「スタイルがいい」「身長が高い」「顔が小さい」という美点を指摘される。
そしてどんなに自堕落に見えても、カナは決して薄汚くない。鏡の前で時間をかけて身だしなみを整える場面は2回出てくる。ここにも、日常生活は乱れ、部屋は散らかり放題でも、外見は整っているというアンビバレントさが表出する。特にキャンプ場の場面では、ハヤシの母から「場違いな身づくろい」を指摘される。
もちろん、カナの「素材」の部分は、河合優実のそれによるところが大きい。山中監督は河合に当ててカナという役を作り上げた。先述のアンビバレントな身体性は、おそらく山中の意図するところだろう。
そのアンビバレントさは、カナに起こるアクシデントを観客に見誤らせる。
ひとつは先述のメンタル不調である。カナは精神の病だったのか? こう思わせつつも、やっぱりカナは(大)丈夫かもと思わせるタフさがラストに結実する。
もうひとつは、階段での転倒事故だ。車いすに乗せられ、声も出せなかったカナを見て、観客は「カナは半身不随になったのか? ハヤシは彼女を一生支えるのか? そんな甲斐性のある男だったのか?」と思わされる。しかし彼女の「若さ」は、まずその声を回復させ、取っ組み合いのけんかができるまでに身体を癒やす。
*
「攻殻機動隊」における「電脳」は頭に埋め込んだスマホのようなものだった。その電脳と連動するのが強い肉体である「義体」だった。
カナはほぼほぼスマホと同化した、弱い肉体を持つ存在として描かれる。しかし、若さと河合の肉体は、カナを否応なく強くする。ナミブ砂漠の人口の水飲み場を訪れる、野生のオリックス。おそらく天敵に襲われたらひとたまりもないだろう。しかし、水を与えられれば砂漠で生きていくくらいの強さは持つ。それくらいの「ちょうどいい強さ」をカナは身に着けている。
そして、野生動物としてのたくましさは、彼女に「ちょうどいい身勝手さ」をも身に着けさせる。
先に父親との断然には中絶への嫌悪が絡むのではないか、と述べた。中絶はたとえどんな事情があっても「男の罪」だ、とカナは考える。父親を許せない気持ちの根源がここにある。この気持ちはハヤシにも向けられていく。
引っ越し当日にハヤシの所有する胎児の写真をカナは見つけるわけだが、次にそれが登場するのは、ハヤシが「ニートがみなしごを育てる話」を書いているときだった。カナは押入れの天袋から、件の写真をすっと取り出す。
おそらく何度も取り出して見ていたのだろう。それだけ中絶はカナの心にひっかかっている。そして、待ち伏せを企てたホンダにも「中絶した」と噓をつく。
中絶に対するもやもやは、カナの頭に渦巻いている。女に中絶をさせる男は悪い。相応の罰が下されて当然だーー。これがカナの「ちょうどいい身勝手さ」のひとつだ。上述の「認知のクセ」「べき思考」にも当てはまる。そして、ハヤシの「忘れていたよ」のひと言が、カナの短い導火線に火をつける。
カナの男性への怒りは、女性嫌悪(ミソジニー)の裏返しである男性嫌悪(ミサンドリー)の一種だろう。罪を犯した男は贖罪をすべきだ。だから、職を失った私をお前は養う義務があるーー。カナの発想はここまで飛躍する。
ハヤシ:カナは俺にどうしてほしいの?
カナ:は? 自分で考えろよ。クリエイターだろ。
このやり取りでおもしろいのは、ハヤシが意外とどんと構えていることだ。太い実家があるからなのか、「クリエイター」としてそれなりに嘱望されているからなのかわからないが、カナ1人くらいなら食わしていける自信があるようにもとれる。
実際、ハヤシはカナに生活力や金銭面で頼りにしているわけではない。同棲当初、ハヤシが「僕たちはお互いを高め合っていけると思うんだ」と言うのは、観客にとっては「え〜?」であるが、本人にとっては大まじめだったのかもしれない。つまり、ハヤシはクリエイターとしての自分のミューズとしてカナをとらえている。カナの存在が、彼本来のコミュニティー(海外帰りの家族、元カノ(カナコ?)、学歴ロンダリングした現官僚の友人)との決別の象徴となっている。
もちろんカナはその枠にとどまる玉ではない。先の男性嫌悪(ミサンドリー)とあいまって、反感はクリエイター批判という形をとってハヤシに向けられる(「お前が作った作品は毒だ」「映画なんか観てどうなんだよ」)。
しかし、ハヤシもなかなかタフである。過去の中絶に対する罪悪感はある。でも、カナのミサンドリーもクリエイター批判も、彼にとっては意味がわからない。響かない。なんだかわからないが、怒り狂ったオリックスがいきなり襲いかかってきた。ハヤシにとってはそんな認識だろう。
カナの有する「弱い肉体」は「強すぎない体」とも言い換えられる。それが「ちょうどいい身勝手さ」と結びついたとき、さまざまなタイプの同種とのかかわりのなかで、関係性の強弱に応じて相応のフリクションが生じる。そのさまを観客は見せられる。
一方で本作に「仕事」や「仕事をする肉体」の視点を持ち込んだとき、職場で自動思考を口走ってしまう精神状態はやはり好ましくないし、無職のまま男に養われて生存するのもなにか違う。この「なんか違う」の手応えのソリッドさを、カナとともに観客は共有する。