『<私>を取り戻す哲学』を読んで
今回は岩内章太郎『<私>を取り戻す哲学』を読んでの個人的な発見や気づきをまとめていきたいと思います。
※<私>というのはそれぞれにとっての自分自身で、地の文の私=このnoteの書き手です。
私が本書を読もうと思った理由を簡単に書いておくと、本書を読む前の私は「自分がわからないような感覚・自分が失われているような感覚」を漠然と抱えていて、その感覚はどこから来ていてどのように自分を取り戻していけばいいのかということを発見したい・そのためのヒントを得たいと思ったからです。
本書の内容を引用と共にざっくり書いておくと、
このようにサイバースペースに常時接続することで埋もれてしまった<私>を、余計なものをそぎ落としていくことで取り戻していく。この主題について「<私>の意識体験から始めるデカルト的な立場」から取り組もうというのが本書であります。
正直なところ基礎となる哲学・思想知識にあまり理解が無く、口語的に噛み砕いて説明された部分を頼りに補足してなんとか読み進めたので、もしかしたら間違っていたりずれていることもあるかもしれないので、詳しい方は補足など頂けたらありがたいです。
それではここからは本書の内容と私の個人的な気づきを。
・スマホを見続けてしまうという行動に隠された背景
スマホを見続けてしまうという行動に対しては、『スマホ脳』によるような人間の脳が現代のデジタル化した環境に適応できておらず、そんな人間を依存させるような設計をSNSがされているというような原因がまず私の中に浮かびました。
それとはまた異なる観点から本書で指摘されていたのは、なんとなくスマホを見続けてしまうという行動は<私>の喪失の1つの表れと捉えることが可能で、文明が進化して社会が豊かになったことで生まれた退屈を打ち消すための「動物化(人間の欲望に対して動物の欲望が優性になること、ex没頭)」の1つであるということでした。
スマホは絶えず情報を与えてくれて没頭することができるし、アルゴリズムが自分好みの情報を提供してくれるからなんとなくこれだという感覚を得ることができる。しかし、これは自身の外に目を向けている行動なので、自分が本当に求めているものがこれなのか分からないが退屈は嫌なので抜け出せない・<私>の内側に目を向けることはどんどん希薄になっていってしまうというサイクルの存在も指摘されている。
確かに、現代の退屈を手懐ける術として國分巧一朗の『暇と退屈の倫理学』では「動物化」が有効なことが示されているが、私たちは人間が他の動物と異なり「動物化(没頭)」できる対象を様々なものを見て自由に移動して決めることができるという指摘を見逃してはならないのではないか。本書における筆者の方向を踏まえると、その「動物化」する対象を探る段階においても自身の内側に向き合うことが大事になるのではないかと解釈することができる。「何者かになりたいという自分探し」にも通ずる部分があるのではないかと感じました。
また、本書では「動物化」以外にも現代の退屈を打ち破るための道として「善への意思」が挙げられています。これはそのまま良いことをしたいという意思でありますが、例えばSDGsなど良いとされる枠組みのあるもの(善のパッケージ)にそれを絶対視して飛びついてしまう恐れや、その盲目が最悪の場合には良いと信じているもののために非道な選択をしてしまう恐れがあることが示されています(ex地下鉄サリン事件、ホロコースト)
現代の退屈に対抗する「動物化」と「善への意思」という選択肢はどちらも自身の外側に目を向けるものであるので、<私>を取り戻すため、そして世界に対して適切な態度を身につけるためにも、筆者は自分の内側に目を向けることを推奨しています。
・私を取り戻すために自身の意識体験に目を向ける
<私>を取り戻すためには自分の内側に目を向ける必要がある。そこで問題になるのは<私>の意識体験について、つまり<私>がどのように対象を認識するのかということ。そこで筆者はデカルト哲学、ピュロン主義、フッサール現象学を起点として、新たな認識の方法を主張する。
その認識の方法は伝統的認識論とは大きく異なる。
伝統的認識論では、「主観(私)が客観をきちんと認識できるのか」ということが問題であった。例えばリンゴ(客観)があるが、私(主観)はきちんとそれを認識できているのかということ。しかし、俯瞰したとて自分が自分を抜け出せたりしないので自分の認識の仕方を客観的に確かめることはできない。
さらに、正しく認識できるのかという姿勢では正しさをめぐる信念対立が起こりかねない。一方では我こそが絶対に正しいと主張し、一方では人それぞれであると主張する。しかし、このどちらの立場もが結局のところ力の強いものが勝つという「信念対立をめぐる独断主義と相対主義の限界」の指摘が個人的には発見でした。
話を戻します。
筆者が主張する新たな認識の方法とは、「対象それ自体が何であるかという判断を保留し、一切を<私>の意識体験の確信とみなすこと。」です。
対象が<私>にとってどのように現れるかは観点によって様々で、そのどれもに可能性があり1つに決められないので判断を保留してみる(エポケー)。そうすることで対象と一度きちんと向き合うことができ、先ほど触れた独断主義と相対主義の限界からも逃れることができる。そして対象をどれだけ疑ってみても「我思う、ゆえに我在り」に代表されるように<私>の意識体験の絶対性は確かである。しかし、この<私>の意識体験の絶対性は、例えば一面的であるなど不完全である点も持つため有限であると言える。
筆者の主張する「一切を<私>の意識体験の確信とみなすこと」は<私>の意識体験の絶対性と有限性をそれぞれの<私>が、言い換えると誰もが同じ条件として抱えることを可能にする。よって、そこを出発点として<私>と他の<私>の意識体験の共通項を探ることで<私たち>の意識体験をつくっていくことを目指せるようになることが述べられている。
その共通了解を作り出す条件や他者が意識体験においてその妥当性を確信するプロセスなど詳細な部分はここでは置いておき、「これが正しい」とか「人それぞれ」で終わらせずに、正しいものが何なのか分かりにくいこの世界の中で、相手の意見をまず受け止めて尊重し(それは意識体験であるからその人にとっては絶対的ということが前提になる)、普遍的とも言えるような納得解をともに作り上げていこうとする態度は非常に大切だなと対話のポイントを教わった感覚もありました。
・本当の<私>と弱さ・脆さ
例えば、褒められているのになんとなく寂しさがあるみたいな場合は、この人は自分のネガティブな部分を知らない=本当の自分を知らないみたいな。
筆者は哲学者のマックス・シェーラーを参考に、<私>にどうにもコントロールできないような対象との摩擦や抵抗が、<私>にその対象から独立して存在しているという確信を与えると述べている。
特にSNSなどサイバースペースにおいては自分を見せたいようにデザインすることができるため、摩擦や抵抗を簡単に避けることができる。逆に言えば、できれば見せたくないと躊躇される自分の弱さが<私>というものをはっきりさせる。
サイバースペースにおいて自分の弱さを簡単に隠すデザインができる時代だからこそ、勇気をもって<私>の弱さをさらけ出すのも、<私>の実感にとって大事なんだなと思いつつ、でもやっぱり怖いよななんて間をゆらゆらしている私です。
本書では筆者が提出した認識の方法について、実際に大学の授業やフェイクニュースなどの例を題材に、どのように思考を進めていけば良いのか・どのような態度で向き合うのが好ましいのかについても説明しています。
気になる方はぜひ手に取ってみて下さい~
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!
もしもサポートを頂けたなら、それはさらなる経験に使い、僕の視点からその経験を文章にして共有させていただきます!