正しくありさえすれば、誰も私を否定できない
ライターを志す前は、雑貨系の中小企業で営業や企画の仕事をしていました。会社を辞めたあと、転職に失敗してフリーターに。その頃から2つ3つかけもちしてきた副業の1つがライティングの仕事です。
私はライター業をはじめてしばらくすると、「正しい文章」を追い求めてドツボにはまってしまいました。
正しさって難しい。文章においても、人間関係においても。
ダメ出しに人格まで否定された気持ちに
学生時代は絵本作家か小説家か、Numberのスポーツライターになりくて、社会人になっても文章だけはいつでも書ける自信があったんです。
でもライターの実地に出たとたん「才能がないかも」と落ち込み、担当者から面と向かってダメ出しされる回数が増えるにつれ、考え方や人格まで否定された気持ちになりました。
誰彼かまわず期待に応えたい。それがドツボの始まり
初仕事はフリーペーパー(小冊子)の原稿書きだったのですが、フリーペーパーのような印刷物の仕事では、数人の担当者がグループとなって編集者の役割を果たすケースが少なくありません。
担当者が3人いれば、赤字の入れ方も三者三様です。
いろいろな人からいろいろな指摘を受けるうちに、私はこう思いました。
「相手が誰であろうと、みんな最初の読者なんだ。かけられた期待には全部、応えたい。」
そうすれば自分も、文章も嫌われないから一石二鳥!根っからチキンハートな私は、文章を八方美人化しようとしたのです。
原稿を差し替えられる理由
しかし、みんなの意向を反映して八方美人になったはずの文章なのに、なぜか差し替えられることが続きました。
原稿の一部分に赤字を入れるの代わりに、まるっと差し替え用原稿を書いて渡されてしまうわけです。「ダメだねぇ、全然わかってないね」と全否定された気分になるので、差し替え原稿を用意されるのは一番避けたかったのに。
言われた通りに直しても、担当者が原稿に満足する様子はなく、何が正解なのかわからない。
私は「なぜ、この通りに直して欲しいのか?」と聞きもせず、必死に笑顔をつくり平気なふりをするのに一生懸命でした。
それからは何を書いても差し替えられる気がして、文章を書いては消し、一文字書いては消し、どんどん原稿が書けなくなっていきました。
みんなにとって正しい文章なんてあり得ない
そして、早く楽になりたかった私は……。頭をフル回転させて恐ろしい結論を導き出しました。
「全否定されないように、誰もが気にいる文章を書きたい」
↓
「最低条件として、文章のミスや間違いを絶対に無くそう」
↓
「誰もつっこめないような、正しい文章を書いてやる!!」
この道の先には、何にも、ころがっていません。
みんなにとって正しい文章なんて、あり得ないわけです。正しさは追求するものではない。「正しくあろうと心がけても、なかなかできない」程度に思ったほうがいい。
そして、誰もつっこめない文章が作れたとして、それでいいのかどうか?
無難な文章にも活躍の場はありますが(企業のCSR報告書とか)、それ以外はどうするの? という問題は残ったままです。
ライターの仕事をくれた身内は、なんどか私に「文章っていうのはつっこまれるように書くのが基本だよ。」と言っていました。つっこまれる→ひっかかる だったかな。
せっかくの言葉が腑に落ちないまま、私は正しさを追い求めてしまいました。
ようは「正しくありさえすれば、誰も私を否定できない。」と思っちゃったんですね。もはやライターとしてどうこうというより、自分のプライドを守りたい一心だったのです。
正しさとは、自分を守るためのもろい武器だった
なぜそれほど「正しさ」に執着してしまったのか。
実は私、ライター以前の会社員時代にも「あなたの仕事、納得できない。」「やり方がおかしい、私は認めない。」という感じで年上の同僚からダメ出しされ続けた経験があります。
思い返せばその頃から、「正しさ」は心のよりどころであり、同僚の批判をかわす根拠であり、自分のプライドを守るための武器でした。
他人から否定されることが怖くて仕方がなくて、臆病で、自信がなくて、けれど一生懸命で、誠実であろうとするほど、「正しさ」にすがってしまうリスクがあるなと思います。
なにも悪気があって「正しさ」を発動していないとしても。正しさや正義感は、無意識の悪意の手先となって、「抑制という暴力」や「他人をコントロールしたいという暴力」への飽くなき欲求に変わっていくことがあります。
それを認識していれば、正しさの使い方はだいぶマシになります。
正しさは諸刃の剣です。だから慎重に扱わなければいけません。
私が会社員生活と決別してフリーランスになったのは、転職活動に失敗しただけでなく、人との関わりに限界を感じたからです。そして限界を感じたのは、人間関係においても「正しさ」を目指していたことと無関係ではないと思っています。
ライターの仕事を通じて、人生の打開策が見えてきた
集団のなかで、たびたび人間関係がうまくいかない私は、繰り返し自己嫌悪に陥ります。でも最近は、以前ほど強く絶望しなくなりました。
ライター業を続けるうちに、「正しい原稿」よりも「いい原稿」が書きたい、と思いはじめたら、人としても「正しさ」以外に目が向くようになってきました。
ライターという仕事は、人生における諸問題にも正面から取り組むきっかけをくれます。
なぜなら、ライターが言葉を使う仕事だから。
人は、すでに知っている言葉を使って、考える生き物だから。
ライターとして考え、学び、鍛錬し、言葉を深めていけば、自分らしい考え方や生き方もきっと見つかる。そんな気がしています。
(前略)あなたが発する言葉の一つひとつは、あなたの人格そのものとなる。(以下略)
---引用元『「言葉にできる」は武器になる(梅田悟司 著/日本経済新聞出版社)』27ページより---
また、「どうやったらいい原稿が書けるんだろう?」と思いながら、あるとき横田大樹さんのnote『編集者の勉強法』を読みました。
この言葉は、私の灯台になりました。
“アスピレーション(志、憧れ)”
「そうだ、私に欠けているのは、アスピレーションだ……。」
アスピレーションは、正しさの呪縛から抜け出し、いい文章を書くための第一歩だと思います。
あとがき
ライターになり、多くのダメ出しを経験して、文章力はおろか人格まで否定された気分になった私は、「正しい文章を書く」と決め、ドツボにはまりました。以来、文章と人生における正しさとは何なのか、考え続けています。
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