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最良の別れのため、毎日努力する

認知症の母を1年余り介護してきた。

訪問ヘルパーとして細々働いてもいるが、仕事としての介護と自宅での家族の介護は全く違う。自宅で求められるのは、介護技術より精神面のサポートだ。

常に母を受け入れ、もてなし、おだて、ときには祭り上げる。太鼓持ちか、慈悲深い下僕になった気分だ。母が何度同じ行動を繰り返そうが、何度同じ質問をしようが、グッとこらえる。思うように動いて欲しいときは、感情に訴え、嬉しい、楽しい、面白そうだ、と思わせるよう話をもっていく。決して理論で説得してはいけない。反発を食らうだけだ。何事も合理的に処理したい私は、こういうことが非常にキツい。

他人相手の仕事としてなら余裕でできるのに、身内相手のエンドレスの奉仕だとそうはいかない。「何十回同じことを聞かれても笑顔で答えます」なーんてムリムリー!!

デイサービスも訪問看護もないワンオペの日は苦しい。一旦イラっとしてしまうと、気分を変えるチャンスがない。ずっとイヤな気分を引きずって、しまいには母の存在まで疎ましくなってしまう。こんなとき、他の人はどうやって気持ちを持ち直しているのかと思う。

そんな日々の中、『誰かのための物語』(涼木玄樹,スターツ出版,2019年)を読んだ。

ストーリー自体は夢が複雑に絡まった、時間操作系の物語。内容はさておき、心に引っ掛かる言葉があった。

「人は別れるために生きている」
「人間全員が避けることができないものは、だれかとの『別れ』」
「最良の別れをするために努力をし続ける」(以上p164)

過去に家族を突然失ったじいちゃんの言葉だ。いつ誰と不意の別れがくるかわからない。その日が来ても後悔しないよう、誰とでも最後の日のつもりで接する。それを毎日続けるのだ、と。まさに一期一会の精神だ。

これを読んだとき、母は入院していた。

それより数日前、かかりつけ医を受診した母は、何らかの感染症と診断された。帰宅後、病気が移らないよう別々の部屋で昼食を取っていた時のことだ。ガタンという音がしたので覗いてみると母の様子がおかしい。うどんのどんぶりを持つ手がブルブル震え、一度ひっくり返したのか、膝の上がグシャグシャに汚れている。どんぶりを取り上げても母の手はあちこち動いて止まらない。それでも、「冷たいから温めて食べるだよ」と食べることに一直線で、幼子のような真っすぐな目を私に向けた。一瞬せん妄が起きているのかと思った。慌ててかかりつけ医に相談すると、救急搬送の指示。結局、高熱による震えだしで入院になった。

「人は別れるために生きている」という言葉に、そのときの母を思い出した。もしこのまま母に何かあったら、「良い別れ」と言えるだろうか。言えない。全然言えない。

私は母にやさしくなかった。具合が悪いのに、別室で食べさせたりしなければよかった。高熱でも、認知症に侵された頭でも、母は今なすべき「食べること」を一心に全うしようとしていた。2歳児のように素直に、残された能力の全てで生きようとしている。

それなのに私は、母の見当外れな言動にイライラしてばかり。何も覚えられないことも、正常な判断ができないことも、認知症のせいで、母が悪いわけじゃないのに。
――ごめんね。もっと大局に立って、聖母のようにあなたを包み込むべきだった。

幸い母の熱は下がり、歩けなくなることもなく、2週間後に自宅復帰した。毎日元気に余計なことばかりやらかしてくれている。今朝は、ポータブルトイレの中に尿取りパットが捨てられ、はち切れんばかりに肥大していた。私は聖母に……なれるわけない!

でも、キレながら思い出すのだ。
(人は別れるために生きている)
そして、勤行のようにブツブツ唱えてみる。
「最良の別れ、最良の別れ、最良の別れ……」
ダメな日があってもいい。翌日また仕切り直して良い日にすることにしよう。

(タイトル写真は、実際の母です)

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