篠村友輝哉/YukiyaShinomura

ピアノ弾き、散文、音楽教育 / 桐朋学園大学卒業、同大学大学院修士課程修了 執筆のご依頼随時募集中。 https://yukiya-shinomura.amebaownd.com/

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マガジン

  • エッセイ・評論など

    音楽、その他の芸術や社会問題についての評論やエッセイなど。力を入れて書いたものから、気軽に一気に書いたものまで。とりとめのない雑感も。

  • 名盤への招待状

    ピアノ曲を中心に様々な名盤を取り上げ、その演奏から想いや思考を巡らせる評論的エッセイ。

  • 音楽人のことば

    対談企画「音楽人のことば」をまとめてあります。 最新回は、小林瑞季さんとの【「何を」と「いかに」のはざまで】。

  • 耳を澄ます言葉

    2021年下半期に東京国際芸術協会会報に連載していたエッセイ・評論「耳を澄ます言葉」

  • Tiaa Style

    東京国際芸術協会会報「Tiaa Style」での連載からの6篇。

最近の記事

「偶然」を見つめることから生まれるもの──平野啓一郎『富士山』

 平野啓一郎氏の小説やそこに込められた思想の核にあるものは、やはり、優しさだろう。このほど刊行された短篇集『富士山』を読んで、改めてそう思った。  私が平野氏の小説を読み始めたのは、十代を折り返したあたりからだったが、氏の多くの読者と同様に、私もまた、そこで展開されていた彼の提唱する「分人主義」に救われたひとりだった。人間は、向き合う人ひとりひとりに、触れるものひとつひとつにたいして異なる自分を持っていることを肯定し、反対に、たったひとつの自分、あるひとつの行為にすべてが懸け

    • 主張しない、「個」として在る音楽──ヴィレム・ブロンズ ピアノリサイタル

       少し慌ただしいとさえ感じるほどの早足と動作で、八十七歳のピアニスト、ヴィレム・ブロンズは舞台に現れた(一〇月三一日、すみだトリフォニーホール小ホール)。聴衆に向き合う表情もどちらかと言うと険しげだったが、一礼して向き直ったその一瞬には、慎ましい微笑みが浮かんでいた。  演奏前の緊張感を隠さず、また聴衆への感謝もごく自然に表していたこの登場時の実直な姿は、全体を聴き終えて振り返ると、ある意味、ブロンズの音楽そのもののように思えた。  一曲目のハイドンの「アンダンテと変奏曲」が

      • 音の奥にある「言葉」を語る──アンドレアス・シュタイアー『Schubert:Piano Sonatas No.19 & 20』【名盤への招待状】第16回

         標題や詩といった言葉をもたない音楽にたいしても、その音の奥になにかそれに近いもの、言葉にならなかった言葉のようなものを見出し聴き取ろうと耳を傾け、それを実体化しようとするのもひとつの演奏の在り方である。とりわけシューベルトのような、まず詩があってそこから音楽が生まれる歌曲という分野を創作の中心に据えていた作曲家の器楽作品には、そのようなアプローチで迫ることでしか立ち現れない世界があるように思える。同じ作曲家によるものでも歌曲と器楽曲は別だという意見もあるだろうが、質的にも量

        • 「待つ」あいだの随想

           そうたやすくは触れられない題材を扱ったある映画を先日観ていて、「自分が問い続けていることに安心しないこと」「答えが出ないということに甘えないこと」という言葉が浮かんだ。どちらも意味するところはほとんど同じだが、正解や答えのないあいまいな、あるいは困難な問題を自らに問い続けることのすぐ側には、「こんなに問いと向き合っている自分は大丈夫だろう」という安心感や甘えへの危うい誘いがある。もしそこに誘われてしまえば、それは結局、問い続けることを止めたのと変わらなくなってしまう。けれど

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        記事

          シューベルトの実存に肉薄する──プレガルディエンとゲースのシューベルト・アーベント

           テノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによるリサイタルを聴いた(五月二十二日、トッパンホール)。曲目はすべてシューベルトで、「別れ そして 旅立ち」というテーマのもと、前半と後半それぞれ十二曲ずつ、《冬の旅》と同じ曲数の二十四曲が、独自の選曲と配列でひとつの歌曲集のように集められた。彼らは過去にまったく同じプログラムを録音しており、私は聴いていないが十年前の同じトッパンホール公演でも演奏している。この「歌曲集」を彼らが愛奏していることがわかるが、

          シューベルトの実存に肉薄する──プレガルディエンとゲースのシューベルト・アーベント

          あたたかく、優しい光──レオン・フライシャー、シュトゥットガルト室内管弦楽団 ほか『モーツァルト:ピアノ協奏曲 第7番、第12番、第23番』【名盤への招待状】第15回

           ピアニストで指揮者のレオン・フライシャーの最後の来日公演を聴いたのは、大学三年の晩秋のことだった。二〇一五年一一月二〇日、すみだトリフォニーホール大ホールでの新日本フィルとの共演である。そのときは、すでに高齢であったとはいえ、これが彼の生演奏を聴く最初で最後になってしまうとは、思っていなかったのだけれど……。  苦しんでいた時期だったことも、その、苦悩や傷も含めて生のすべてが人間的な優しさやいたわりをもたらしているような演奏と姿の記憶を、特別なものにしている。それは演奏を聴

          あたたかく、優しい光──レオン・フライシャー、シュトゥットガルト室内管弦楽団 ほか『モーツァルト:ピアノ協奏曲 第7番、第12番、第23番』【名盤への招待状】第15回

          「為すすべのなさ」を抱えて──クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』

           先月末にようやく日本公開された、クリストファー・ノーランの新作映画『オッペンハイマー』を観て、しばらく茫然としていた。あまりの凄みに圧倒されて茫然としていながら、日常の音に劇中の音を想起するほど作品に頭が浸されてそれについて考えずにはいられず、しかしやはり思索はまとまらないという状態になってしまっていた。それでも考え続けているうちに、この茫然とするほかない感覚、言い換えれば「為すすべのなさ」のようなものこそが、そのままこの映画から私が受け取ったものだったのかもしれないと思い

          「為すすべのなさ」を抱えて──クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』

          「こちら」と「あちら」の狭間から響く声──ジェシー・ノーマン、クルト・マズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団『R.シュトラウス:4つの最後の歌』【名盤への招待状】第14回

           気晴らしや耳のさみしさを埋めるためばかりではでなく、なにかもっと根源的な渇きを潤すためにも音楽を聴いているのだとしたら、その渇きとはつまり厭世観のことであると言っていい。音楽を痛切に求める心性の根本には、つねにこの世界にたいする嫌気や失望があるはずだろう。こうした暗く重たい想念からは、現実とはべつの時間の流れのなかに身を置くことでしか解放されない。  だから、ある意味、あらゆる音楽の背景にはそうした厭世的なものがあるとも言えるのだが、その現実からの超越願望こそが主題として痛

          「こちら」と「あちら」の狭間から響く声──ジェシー・ノーマン、クルト・マズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団『R.シュトラウス:4つの最後の歌』【名盤への招待状】第14回

          鮮烈な感性が示す伝統の大きさ──エカテリーナ・デルジャヴィナ『J.S.バッハ:フランス組曲』【名盤への招待状】第13回

           芸術表現に触れるということは、他者の話に耳を傾けること──それも、実際の話し言葉では伝え得ない複雑にして痛切な話に耳を傾けることである。だから、話を聴いたあとでその内容や語り口にさまざまな感想を抱くことは自由だが、話を聴く前から話者に対して「自分はこういう話が聴きたい」と求めるのは、本来的に慎まなければならない態度である。  そのことを踏まえた上で、個々の内容というより芸術体験そのものに望まれることを述べるなら、それはその話を聴いたあと、自分のなかになにがしかの変化があるこ

          鮮烈な感性が示す伝統の大きさ──エカテリーナ・デルジャヴィナ『J.S.バッハ:フランス組曲』【名盤への招待状】第13回

          モデラートの呼吸──アントワン・タメスティ&マルクス・ハドゥラ ほか『Schubert: Arpeggione & Lieder』【名盤への招待状】第12回

           楽譜の冒頭にModerato(モデラート)と記されているとき、演奏者はそれを、「中庸の速さで演奏するように」という指示として受け取る。あるいは、Allegro moderato(アレグロ・モデラート)などのように、それがほかの速度表記と併せて書かれている場合には、前に置かれた言葉の指示する速さの程度が控え目であることを意味していると捉える。  この文章に目を通してくださっている方々は音楽に詳しい人が多いだろうから、何を今さらと思われるかもしれない。しかしよく考えてみると、そ

          モデラートの呼吸──アントワン・タメスティ&マルクス・ハドゥラ ほか『Schubert: Arpeggione & Lieder』【名盤への招待状】第12回

          孤絶を抱えた再創造──イーヴォ・ポゴレリッチ『Chopin』【名盤への招待状】第11回

           暗く鋭い光を湛えた音が、こちらの呼吸からはもちろん、楽譜に記された拍節からさえも離れた時空間のなかに閃いて、そこに佇み、その音を閃かせているただ一人の彼に向けて歌っている。背景におぼろに響く左手の和音を伴って途切れ途切れに閃くその歌は、こちらに開かれていないだけではなく、こちらから安易に立ち入ったり、寄り添うことをも決して許さない、冷たい厳しさに耐えている。冴え冴えとしたその音は同時に柔らかさを持ち、瞬間ごとにさまざまな色を映し出す。共感しようとすれば拒まれるのだが、しかし

          孤絶を抱えた再創造──イーヴォ・ポゴレリッチ『Chopin』【名盤への招待状】第11回

          傷つきながら癒される

           十一歳のある夜の遅い時間、芸能人から一般人まで複数人の出演者たちが、なにかシリアスなテーマについてテレビで議論していた。子どものころ、早く寝なさいと言われた記憶はほとんどなく、就寝する時間が親と一緒だったので、それを見ていた母の横にいただけだったのだが、ある俳優が「セックスこそが愛の究極だ」と真顔で語っていたりする、今にして思えば、その年齢で見るような内容ではとてもなかった。  その番組のことを今でも思い返してしまうのは、ある出演者が口にしていた死生観に、当時の私が幼いなが

          傷つきながら癒される

          手に宿るもの

           数か月前のある日、私の出演する演奏会の案内を見たという知人から、「手がきれいだなと思っていたんですよ」と言われた。その人は、私がピアノ弾きだということを、その掲示を見るまで知らなかったのである。  こういった日常の何気ない場面から、はじめてかつての恋人の手を握ったときや、大学に憧れを抱いて見学に来た受験生と在校生として握手をしたときといった重要な場面まで、手やその感触をほめられるという経験は何度かあったが、そういうとき、私は自分という人間そのものが肯定されたかのような錯覚を

          これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

          「芸術家として優れている人ほど往々にして人間としては問題があることをするものだ」というような意見を、陰に陽に口にする人は、少なくない。かれらは、芸術家は社会規範からはみ出しているからこそ、常人にはできない発想や表現が可能なのだと言うのである。  私はこういった意見に、反対の立場を取り続けてきた。  確かに、私も含めて芸術にのめり込むような人間は、内面に、この世界への絶望と結び付いた、現実の倫理とは相容れない危険な衝動や願望を少なからず抱えているものだ。けれども、自分の抱えてい

          これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

          浸み透る歌声

           しばらくぶりに話した人に、元気ですか?と尋ねられて、答えるまでに少し間が空いてしまった。春前から不運や心理的に負担のかかるできごとが続いていたのに加えて、身体的にもやや疲労が溜まっており、思考や感情の方向も負のほうへ極度に傾きがちなこの頃であったから、「元気」と言ってよいものか、馬鹿正直な私はためらってしまったのである。間を空けてしまったらもうあとには引けない。元気と言いたいところなんですが、最近ちょっと疲れてます。たっぷり休息を取りたいですが、取り掛かっている仕事が一段落

          「信用できるから」

           年末や盆をのぞくほぼ毎週末にある仕事に電車で行く途中、高校時代に通学で乗り換えのために下車していた駅を通る。寝つきの良かった日でも必ず中途覚醒してしまう決して深いとは言えない睡眠と、始終何かものを考えてしまうこの脳のためか、電車に揺られているとすぐに眠気を催し、二駅目に着く頃にはもう浅く眠ってしまっていることも少なくない。けれど、停車する度に意識は戻ってくるので、比較的目が覚めているときなどは、その駅に停まると、車窓の向こうに見える乗り換えていた路線の車両を眺める。その少し

          「信用できるから」