「偶然」を見つめることから生まれるもの──平野啓一郎『富士山』
平野啓一郎氏の小説やそこに込められた思想の核にあるものは、やはり、優しさだろう。このほど刊行された短篇集『富士山』を読んで、改めてそう思った。
私が平野氏の小説を読み始めたのは、十代を折り返したあたりからだったが、氏の多くの読者と同様に、私もまた、そこで展開されていた彼の提唱する「分人主義」に救われたひとりだった。人間は、向き合う人ひとりひとりに、触れるものひとつひとつにたいして異なる自分を持っていることを肯定し、反対に、たったひとつの自分、あるひとつの行為にすべてが懸けられるとする考え方に抗うその作品と思想は、まさしく自分の本質やそれに関する問題をめぐって苦悩していた高校時代の私に、光をもたらしてくれたのだった。
何であれ、たったひとつの何かにすべてが懸けられ、すべてが表れるとするのは、今日未だに真理のように語られていることだが、これほど人間を追い詰める思想もないだろう。何かひとつでも言えないことがあったならば、その相手との関係は、「本当」ではなくなってしまい、自分が他者を傷つけてしまったならば、それは自分が本質的にそういう人間だということになってしまう。そういう単純で粗雑な人間観の対極にある分人主義には、人間の複雑さを複雑なまま受け入れてくれる優しさがある。
こうしたアイデンティティの問題に留まらず、平野氏の作品は常に、通念への問いに満ちている。幸福や充実感への希求こそが逆に人を苦しめることを明らかにした『空白を満たしなさい』、現在が未来を変えると信ずることよりも、認識によって未来が過去を変えることに救いを見ようとする『マチネの終わりに』、過去を隠し偽ってもほんとうの愛は生まれ得ることを描いた『ある男』、相手や対象に何かの「代わり」を見ることを否定しない『本心』……。そのすべての奥に、さまざまな通念に傷ついてきた者、通念からこぼれ落ちてしまった者たちへの平野氏の優しい眼差しを、私は感じる。
新作『富士山』は「あり得たかもしれない人生の中で、なぜ、この人生だったのか?」という帯文の通り、収録された五作を「偶然性」という主題が貫いている。
表題作「富士山」で問われているのは、咄嗟のときの行動にその人の「人間」が表れると言えるのか?ということだろう。よくニュースなどで、凶悪事件の犯人に立ち向かったり、誰かをかばったために犠牲になったりした人のことが「英雄」として報道されるが、それでは、自分の身の安全のことだけを考えて他者には目もくれず逃げた人は例えば「冷たい」人なのだろうか? その「英雄」とされた人も、仮に普段から正義感の強い人だったのだとしても、何か他に事件時の条件が違っても絶対にそうしたと言い切れるのだろうか? 人間は、何か誰にも説明不可能なもの、つまり偶然性に左右されながら、次の行為に移っているのではないか。作品のあらすじには触れないが、この問いには、自死をはじめ、ある人を死に方だけで「そういう人だった」と語ることの暴力性を描いた『空白を満たしなさい』に通ずるものがある。たとえ緊急時の行動であってもそれがすべてではないと考えることは、そういう状況下でも正義的に動けなかった人にとっての慰めにもなるだろう。作品の最後には「富士山の正面というのは、どの方向から見た姿なのだろうかと考えた」という一文があるが、ここには、まさしくすべてが正面であり、すべてが正面でないという分人主義が響いている。
この「正面」という主題は、三作目の「鏡と自画像」に繋がっている。死刑になることを望んで凶悪事件を企てる主人公の独白体で彼の思考が綴られるのだが、ここでは相手の顔に現れている自分の顔、つまり相手が見ている自分の姿は自分そのものなのかという問題が追求される。そしてそのことは、自画像──つまり芸術作品に鑑賞者が見るものは、作品に描かれているもの自体なのかという問いに重ねられている。
主人公のように、自分の表情や言葉が、思いがけない受け取り方をされていたことを後から知って考え込むというような経験は、私にもある。それは彼が思索するように、相手が私を鏡にして、私の顔にその相手が見たい自己を描き出しているのかもしれないが、それが映し出されているのが私であるからには、それは私の顔にあるものだと言ってもいいのではないか。この感想もまた、この「鏡と自画像」という作品に私が見たいものを見ているだけなのかもしれないが、小説は、そのことは決して悪いこと(ばかり)ではないとする方へと導いてくれる。次に収められた掌編「手先が器用」では、それがより強く感じられる。しかし、そのように私を見てくれる人との出会いは、やはりまったくの偶然に左右されていることが、「鏡と自画像」の最後には改めて書かれている。
最後に置かれた「ストレス・リレー」は、この生や世界に満ちる偶然性に目を向けることはそのまま、自分自身や他者への優しさに繋がることを実感させてくれる。ストレスを抱えているある人物が、それを暴発させてしまい、その暴発を受けてしまった人が、そのストレスをまた別の人にぶつけてしまい……という負の連鎖が広がっていくさまを描く本作は、ユーモラスで、いわゆる「面白い」作品だが、これはそのまま、作中の人物たちのようにストレスを繋いでしまった経験のある、作中には描かれないすべての名もなき人物たち──つまり読者である私たちへの深い理解に溢れた一篇だろう。街中で大声で文句を言っている人などを見かけることはしばしばあるが、「富士山」同様、それはその人が「そういう人」だからではなく、偶然にストレスが限界に達していただけなのかもしれない。誰にも、たまたまそういうタイミングであったために、普段はあまり気にしない些細なことに異様に腹を立てしまい、あとから振り返ってみっともないことをしたと反省することは、あるだろう。
ストレスのバトンを渡すことなくアンカーとなったのはルーシーという中国人留学生だが、彼女がなぜアンカーとなれたのかは「なかなか、単純ではない」とされる。ストレスを暴発させてしまうことにも、暴発させずに済むことにも、どちらにもさまざまな要因があるのであり、そうした無数の要因の絡まり合いによって起こることを偶然と呼ぶのかもしれない。小説は、ルーシーは「さり気なくも、社会を守った英雄であ」り、「しかし、彼女はそのことに気づいておらず、周りの誰もそう思っていない」からこそ、「文学の対象であり、小説の主人公の資格を立派に備えているのである」と結ばれる。これは、まさしく「さり気なくも」、すべての人の生を肯定してくれているかのような一節ではないだろうか。
しかし、ここではあまり触れられなかった収録作の「息吹」にある一節のように、「偶然の比重が大きすぎる」ことにたいして、やるせない思いはどうしても残る。何か衝撃を受ける出来事があったときには、主人公の息吹同様、「そのことを「運命」だとか、「偶然」だとかいった抽象的な言葉で考えようとし」ても、「自分の感じた衝撃の表面で、それらは上滑りするばかり」なものだろう。
「鏡と自画像」には、「頭の中でだけ考えていると、理屈が通らないようなことでも曖昧に押し通してしまう。しかし、声に出そうとすると、考えが整理されていない時には、言葉に詰まる」という一節がある。「偶然」や「運命」といったものを感じ取ればこそ、その言葉で済ませず、その理屈の通らなさを見つめ、声を与えようとし続けたい。平野氏の紡ぐ言葉の行間には、そう思わせてくれるような力も宿っている。