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「待つ」あいだの随想

 そうたやすくは触れられない題材を扱ったある映画を先日観ていて、「自分が問い続けていることに安心しないこと」「答えが出ないということに甘えないこと」という言葉が浮かんだ。どちらも意味するところはほとんど同じだが、正解や答えのないあいまいな、あるいは困難な問題を自らに問い続けることのすぐ側には、「こんなに問いと向き合っている自分は大丈夫だろう」という安心感や甘えへの危うい誘いがある。もしそこに誘われてしまえば、それは結局、問い続けることを止めたのと変わらなくなってしまう。けれども確かに、そういう安心感に身をあずけたくなるほどに、問い続けること、答えが出ないとわかっているからこそ答えを求めてもがき続けることは、不安定で、厳しい営みだ。
 私はその営みの持続をこそ内省と呼んでいるが、何しろ不安定な営みなだけに持続するには均衡を取り続ける「体力」が要る。私の内省には欠かせない、その過程と現時点での結果にかたちを与えようとすることにも「体力」が要る。表現したいことははっきりしているけれどまだそれをかたちにするには早いというのではなく、何かをかたちにしたいという思いだけがあって言葉や表現の種が訪れないときがあるが、それはその「体力」があまり残っていないということなのだろう。
 内省は思考と結び合っており、思考には当然脳を使うが、脳というのは少なからずカロリーを消費するらしく、内省や思考はだから、「体力」のみならず実際の体力も消耗する。単純だが、どちらの意味においても体力不足にあるときに必要なのは休息であり、休息はそのまま、「待つ」ということでもある。私はいま、いくつかのできごとの影響で、この「待つ」状態に入っている。
「待つ」のは、やがて訪れるであろう何かを逃さずに捉えるためなのだが、この夏に開いた演奏会の重圧に耐えていたとき、家族との日常の会話の中で、そこまでして何を伝えたいと思っているのかと訊かれて、自分は一体何のために内省と表現、そして「待つ」ことを繰り返しているのかと改めて考えてしまった。
 考え続けているなかでふと思い出したのが、ある友人が動揺と悲しみの最中にあったとき、私の演奏の録音を繰り返し聴いて「元気をもらっていた」と話してくれたときのことだった。自分の演奏にそんな力があるとは考えたこともなかったと言うと、「何より感じたのは『そこに人が生きていること』だった」と、さらに言葉を重ねてくれた。
 そんなに追い込まれてまで何を伝えたいと思っているのかという問いへのひとつの答えは、すでに友人が見つけてくれていた。演奏であれ、文章であれ、語ることであれ、私の表現は、自分が惹かれた人や作品、無視できない問題についてのものであり、それは、かれらが確かにこの世界に「生きている(いた)」ということを他者に伝えるということだ。そしてそのことと、私自身の存在の痕跡を残すこととは、私のなかで不可分に結び付いている。
 昨年末、その友人の演奏会に共演者として出演した際に、高校の同級生がスタッフとして参加してくれた。彼女と対面で再会するのは十年くらいぶりだったが、会った瞬間、ほんとうに自然に、お互いが吸い寄せられるように抱き合った。演奏を終えたあとは、共演した友人とも力強く抱き合った。私は、こういう場面でもハグをすることはほとんどないが、それだけに、自分が相手を受け止め、相手が自分を受け止めてくれていると感じたあの優しい瞬間を、何度も思い返してしまう。
 冒頭に観たと書いた作品と同じ監督のべつの映画に、「ハグをするのは存在を確かめるため」というような台詞があったように記憶している。少なくとも、そのようなことが主題になっていたことは間違いない。自分の存在は、他者に抱きとめられることではじめて自分自身でも感じることができる。しかし人は誰とでもハグをできるわけではないし、していいわけでもない。けれども、表現によって、人は、相手を直接抱きしめることなく抱きしめることができる。またべつのある友人が、私の演奏を聴いたあと「音楽は、他者に触れないまま触れることができる」と言ってくれたように。そのようにして私たちは、「そこに人が生きている」ことを実感する。
 そう問いの答えは、しばしば、他者から受け取った、文字通り有り難いヽヽヽヽもののなかにこそあるのかもしれない。そしてそれが、不安定で厳しい、内省の持続を支えてくれている。だから、問い続けることを焦る必要はない。その他者たちの存在を抱きしめ得るなにかにかたちを与えるためにも、いまはゆっくりと「待つ」ことにしよう。

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