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これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

「芸術家として優れている人ほど往々にして人間としては問題があることをするものだ」というような意見を、陰に陽に口にする人は、少なくない。かれらは、芸術家は社会規範からはみ出しているからこそ、常人にはできない発想や表現が可能なのだと言うのである。
 私はこういった意見に、反対の立場を取り続けてきた。
 確かに、私も含めて芸術にのめり込むような人間は、内面に、この世界への絶望と結び付いた、現実の倫理とは相容れない危険な衝動や願望を少なからず抱えているものだ。けれども、自分の抱えているものの危うさをほんとうに感じているからこそ、そういった衝動を現実には起こせないのであって、そういうやり場のない想いを受け止めてくれる世界として、芸術はあるのである。その危険な衝動を「表現」と呼びうる次元に昇華することで、表現者は、現実との均衡を保つことができるのであり、表現のために現実の振る舞いがだらしなくなるというのは、表現者の怠慢でしかない。そういう人は、結局は自らの衝動の危険性を認識できなかったり、たとえば「あの人は天才だから」などという周囲の評価や気遣いに甘えたりしているだけなのだと思っている。芸術家のみっともないエピソードは確かに数多あまたあるが、それらはあくまでも、人生のなかで善行から愚行までさまざまな行為をする人間としてのエピソードのひとつであって、そのことを「そういう人間だからだ」と言って創作物と短絡するのは、やはり乱暴なことだと私は思う。
 ただ、そういった危ういものから生まれた芸術表現それ自体が、他者を深く傷つけることは少なからずある。そもそも、表現とはそれを受け取った他者にさまざまな影響を及ぼすものであり、その前提からして一定の暴力性を持っている。そのことに自覚的であるならば、それを生み出す過程においては、表現者本人は消耗し傷つくだろうが、周囲の人間が現実的な被害のレベルで傷つくようなことは、可能な限り避けなければならないと考えるのが当然である。それが、表現者の、芸術の倫理のはずである。目の前にいる人を傷つけて何とも思わないような人が、どうして繊細な感受性と豊かな想像力を必要とする芸術を生み出せよう?

 だが、今年の五月に日本公開された映画『TAR/ター』(トッド・フィールド監督、以下『TAR』)を観て、私は、その芸術の暴力性や表現者の抱える衝動といったものの危うさを過小視していて、それが表現者本人の自覚なく現実に溢れ出してしまうということを、直視していなかったのかもしれないと考えさせられてしまった。
『TAR』は鏡のような映画で、これをどう捉えるかに、その人の──さらに言うとその人のその時の──倫理観と芸術観が映し出されるような作品である。だから、ここに綴る散文は、いまの私のそれらを表すものになるだろう。以下、映画の核心に触れる記述が続くので、未見の方は注意されたい。ただ、場面や物語を比較的ていねいに説明しながら筆を進めていくので、本編を鑑賞後に読んでいただくのに越したことはないが、映画を未見の状態で読んでも理解できるものとなるはずである。
 本作は、ケイト・ブランシェット演じる、女性初のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であるリディア・ターを主人公とした、クラシック音楽界を舞台にした現代劇である。ブランシェットのあまりの名演技と存在感に、ターが実在の人物だと思った人も多かったようだが、これは設定、ストーリーともに架空のものである。しかし、その脚本における音楽に関係した部分のディテールと演出は、綿密な取材に裏打ちされているのだろう、クラシック音楽界にいる私が見てもまったく疑問を感じない高精度のものだった。
 女性でレズビアンの主人公が、世界トップのオーケストラの首席指揮者であるばかりか、作曲家としても一流で、ジャンルを超えて主要な音楽賞を総なめしている、という設定だけ見ると、属性的にマイノリティの人間の苦悩や輝きを描いた物語のように思える。しかしターは、育児をはじめ家庭のことはパートナーでコンサートマスターのシャロンに任せきりで、ジュリアード音楽院の講義である学生の意見に容赦なく論駁し、自分の演奏に的外れな指摘をした副指揮者を権力で解任する、極めて権威主義的な人物として描かれている。
 このねじれが、現代社会への大きな、そして挑戦的な問いになっていることは言うまでもないが、『TAR』の複雑さはこれに留まらない。ブランシェットが持てる表現力と存在感の限りを尽くして体現し、トッド・フィールドがシャープな映像で映し出すターという人物の音楽に向き合う姿、音楽について語る姿が、あまりにも魅力的なのである。私は映画を公開日に観たのだが、次の日も、その次の日も、ブランシェット扮するターの姿が頭から離れず、ちょうど一週間後に再び劇場に足を運んだ。道徳的に欠陥のある人物に、そうとわかっていながらこれほど惹きつけられてしまう。この矛盾が、観る者の価値観を搔き乱すのだ。
 ターの問題のある言動も、少し注意深く見る必要がある。例えば、その音楽院の講義の場面である。有色人種でパン・ジェンダーのマックスという指揮科の学生は、あるアイスランドの現代作曲家の作品に取り組んでいるのだが、授業の流れで、ターがJ.S.バッハの作品をどう思うかと訊くと、かれは「女性に子供を何人も産ませた男尊女卑的な作曲家の作品は好きではない」(以下も、台詞の引用はすべて大意)と言う。ターは「信じられない」「そのことと作品に何の関係が?」と漏らしながらも、自分自身も「典型的なレズビアン」で、例えばベートーヴェンには属性的には何も惹かれないが、作品には向き合ってその偉大さを発見してきたと自身の経験を語ったり、バッハを弾きながらその奥深さを語って聴かせる。しかしなおも貧乏ゆすりをしながら「白人の男性作曲家の作品は受け入れられない」と意見を変えないかれに、ターはとうとう、属性だけを見て表現そのものの内実に向き合わないかれの主張がいかに浅はかなものであるかを、他の生徒がいる前で、自らの知識と経験を尽くして徹底的に論証してしまう。
 このターの振る舞いは、明白にハラスメントにあたるが、五分間の長回しで映し出されるターの弁論は圧倒的で隙がなく、「ではあなたの評価基準は、才能や能力ではなく、属性だけなのか?」と問うその姿に、古典芸術を愛し、昨今のいわゆる「キャンセルカルチャー」や、正しさではなくその主張自体が自己目的化しているような動きに疑問を感じてきた人ほど、溜飲が下がってしまったのではないだろうか。
 マックスが、マイノリティとして経験し、実感してきたのであろう苦痛には、想いを巡らせなければならない。しかし、シーンの序盤でかれは、課題として選んだ作品をどう解釈しているのかをターに問われた際に、明確に答えられてはいない。だから、ターに「あなたがその曲を評価するのは、作曲家がアイスランド出身であること、「スーパー・ホット・ヤング・ウーマン」であること、この二つだけ」と言われるのも、その相手を馬鹿にした表現を別とすれば、無理はない。それに、マックスの貧乏ゆすりは、ターが勢いづく前、純粋に講義として音楽について語っていた段階から始まっており、かれは最初から彼女の話に耳を傾ける気がなかったように見える。
 ある作品を、ある特定の観点からしか評価しないような向きや、表現物を政治的な主張のための道具のように扱う向きに、正直に言ってこのところ疲れていた私は「あなたはロボットだ。魂をソーシャル・メディアに形作られている」とターが言うのを見て、胸の内で快哉かいさいを叫んでしまったのだった。私も、自分が敬意をもって向き合ってきた対象を、その表現物ではなく属性や過去の行動のみによって唾棄されたならば、罵倒してしまいたくなる衝動がわき上がってしまったのではないか。同時に、そういう自分は、本質的には自分が反対してきたような意見の人たちと変わらないのだろうかと、複雑な思いを抱いた。
 劇中でターが起こす、倫理的、人道的に問題のある行動の多くは、やはり完全に理解を絶しているものとは映らない。副指揮者のセバスチャンを解任したのも、他のメンバーもスコアと矛盾すると認めるような指摘を彼がしてきたからであり、解任させる時期を探っていた描写はあるが、その決定打となった理由は、ただ単に気に入らないからというあいまいなものではない。チェロ協奏曲のソリストに、首席奏者のゴーシャを差し置いて、新人のオルガをソリストとして迎えるように仕向けたのも、新メンバーのオーディションの場面では彼女への下心のために加点をしたように見える怪しげなカットもあるが、ソリストとして起用する判断は、彼女の演奏を聴いて感銘を受けたうえでのことである。実際、彼女のチェロの実力は、オーディションを審査した誰もが認めている。
 共通しているのは、これらが、自らの音楽を、理想とする高みに導きたいあまりの行為であるということである。それは、リハーサルや作曲の場面で、一切の雑念を振り払って音楽に没入し、妥協せず高みを追求するあの圧倒的で魅力的な姿と、深く関わっているものだろう。もちろん、小学生の娘のペトラをいじめた同級生のヨハンナをドイツ語で脅迫するなど、音楽とは関係のない問題行動も彼女は取っているが、これもまた、芸術に向ける激しい力と一切無縁ではあるまい。ターを表現へと駆り立てているエネルギーは、現実にも溢れ出してしまうのである。
 それをこう言い換えることもできるだろう。ターは、自身の追い求める音楽世界にとって「ノイズ」になるものを、徹底的に排除しているのである。彼女は、演奏会や録音に関わる音楽以外の雑務を、副指揮者候補のフランチェスカに押し付けていて、これもまた問題のあることだが、演奏会や締め切りが近いときの、生活の雑事をはじめ芸術以外のあらゆるものごとをすべて排したい心情は、芸術家の誰もが心当たりのあるものではないだろうか。
 実際に彼女は些細な音に極度に敏感で、その描写も何度となく挟まれる。とりわけ、マーラーの交響曲全集の完成となる、交響曲第五番のライヴ録音と、新曲の作曲へのプレッシャーから寝付けず、小さな物音が気になってその在りかを探す場面は、私自身にも近い経験があることだったので、彼女の抱えている過敏さと重圧の重みが、実感を伴って窺い知れた。
 また、ターには潔癖症的なところがあるのか、手指を消毒したり入念に洗うカットや場面が頻繁に映し出される。その最たるものは、レッスン室として使用しているアパートの大家の娘が、入浴もできないほどの介護を要する母が自室の床に倒れてしまったのを介抱する手助けを頼まれる場面である。ターは一応は介抱を手伝うのだが、自分の部屋に駆け戻ると、まとっていたパジャマをゴミ箱に捨て裸になり、ものすごい勢いで全身を洗剤で擦り洗う。これらもまた、彼女の「ノイズ」を受け入れられない内面の表れだと、私は捉えている。そして、これは言いにくいことだが、これも私自身にも身に覚えのある行動なのだった……。
 ターがいかに音楽に対しては驕りがなく真剣であるかは、リハーサルや作曲に没頭する場面だけでなく、先に挙げた不眠など、精神的ストレスの描写からも読み取れる。たとえば冒頭は講演会の場面で、その語り口は確信と自信に満ちているが、その直前、舞台袖でのターは張り詰めた面持ちで深呼吸を繰り返し、不安を拭うように手を顔の前で振ったり、精神安定剤(これは実はパートナーのシャロンの狭心症の薬で、それを勝手に持ち出していたことがのちにわかるが)を服用する。イベントが始まってからも、インタビュアーによるターの経歴と近況紹介が、マーラーの全集完成の日が近いことに及ぶと、肘掛けに置いた手が微かに震え出している。彼女は決して、いわゆる「メンタルの強い」人物としては描かれていない。その精神は極めて不安定でセンシティヴであり、そしてそれは激しいエネルギーと表裏一体なのである。
 ターは幻聴や悪夢に悩まされるようにまでなるが、こうした精神的不調の原因は、しかし演奏へのプレッシャーのみではなかった。過去に音楽セミナーで指導した若手指揮者クリスタの影に、怯えているのである。
 クリスタは、ター宛に──厳密にはフランチェスカ宛に──、何通も抗議のメールを送っていた。その内容は、ごく断片的にしか明かされないが、ターが各オーケストラに自分を採用しないよう裏で手を回していることを責めているようなものだ。そして、ターがクリスタを遠ざけているのには、過去に師弟以上の関係を持っていたことが絡んでいるようなのである。
 中盤で、ついにクリスタが自死したことがターに告げられる。ターは、「私たちにはどうにもできなかったことだ」と言うが、フランチェスカに、クリスタからのメールをすべて削除するように指示し、自身がサイモン・ラトルやグスターヴォ・ドゥダメルなど(実在の指揮者)、主要オーケストラの指揮者に送った「彼女は推薦できない」という内容のメールも削除する。ただし、このメールもやはり、観客にはごく一部の言葉しか明かされない。
 映画は、もちろん敢えて真相を隠しているのだが、ターの行動や怯えようから考えるに、彼女に疚しいところが一切なかったのかは限りなく疑わしい。クリスタは、やはりターの欲望の犠牲になったのかもしれない。だが、メールや彼女たちの過去に何があったのかの全容が明かされていない以上、音楽に妥協しないターであるから、純粋に音楽的・人格的な見地から、指揮者たりうる素養がクリスタにはないと判断したメールを送っていただけの可能性は、残されているだろう。ただ、もしそうだったとしても、そこに用いられている言葉の表現には、不適切なものも混ざり込んでいる。
 もう一つ、極めて重要なのは、ターがカフェで師匠のアンドリスとする会話の内容である。アンドリスは、戦後のドイツの「非ナチ化」運動のなかで、ナチスに明確に反対していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、ナチスに加担していた疑惑をかけられ、音楽界から追放された逸話を語り、「告発された時点で有罪と同じになってしまうんだ」と言う。
 実際に、ターは、クリスタの遺族から告発され、あの音楽院での講義の盗撮を切り貼りしたフェイク動画がクリスタの自死を報じる記事と共に拡散されて、彼女をはじめとする複数の教え子に手を出していたのではないかという疑惑をかけられ、世間から猛烈に糾弾されることとなる。ターに懐いていたオルガも、ドイツの女性解放運動の主導者だったクララ・ツェトキンを尊敬しているだけに、こうした問題にはやはり敏感で、動画と疑惑の拡散以降はターを密かに扱き下ろし、距離を取るようになる。つまりターは、こういった世の中そのものに怯えて、一連の証拠隠滅と捉えられるような行動を取ってしまったとも解釈できるのである。
 ターは最後まで疑惑を否定するが、最終的に、マーラーの全集完成となるコンサートから降ろされてしまう。いよいよ精神が錯乱したターが、演奏会に乗り込んで、本番中に代演の指揮者エリオットに体当たりをし、暴行を加えながら「私のスコアだ」と叫ぶ場面は、動悸を感じるほどの衝撃を受けた。
 繰り返すが、映画は、明確にターを人道的に看過できない行動を繰り返す人物として描いている。この疑惑がなかったとしても、遅かれ早かれ、彼女の独裁的な言動はエスカレートして、別の事件が起きて業界から追放されていたのかもしれない。しかし、その多くは、マーラーの五番を中心とした音楽に、情熱を傾けて没頭するあまりのことであった。そしてその姿は、確かに魅力的なのである。
 そういう彼女が、「正義」を訴えていながら、間違っても正しいとは言えないものを含んだムーヴメントによってスコアを奪われ、しかも、映画の序盤で、彼女にオーケストラからよい音を引き出す方法を尋ねたような、つまり指揮者としてターにはとうてい及ばないような人物が、彼女の代演をする。
 ターがついに犯してしまった決定的な暴挙を見てショックを受けながら、私は、やるせない気持ちがわき上がるのを押さえられなかった。舞台でタクトをとるべきは、やはり、ターではなかったか。……

 芸術は、現実からこぼれ落ちてしまっているもの、置き去りにされている痛みをすくい取るもののはずである。現実とは別の「場所」を生み出し、あるいは希求し、そこに傷を昇華したり、声にできない叫びを託すことで、現実に満たされない者たちは、ふたたび現実世界を生き直すことができる。
 しかし、芸術は、クラシック音楽をはじめとして、欧米の知的な白人男性という「強者」が生み出した体系を基礎においている場合が多い。私も含めた音楽家たちは、レベルや方法の差はともかく、ターのように、その体系を会得し、先人たちが積み上げてきた世界に少しでも近づくために全身全霊を傾ける。ターが、指揮者のクラウディオ・アバドのジャケット写真を真似たり、英語の発音を矯正したりしていることを、嘘で塗り固めた自らのイメージを作っている描写と捉えた評を目にしたが、そうではなく、これは、先人たちの世界に可能な限り近づきたいというクラシック音楽演奏家の精神の表れではないだろうか。クラシック音楽の演奏に携わる人ほど、この見方に同意するのではないかと思う。
 そして、芸術作品には、こちらの向き合う姿勢と一定のリテラシー、文脈への理解を要求するところがある。それをたとえば私は「深み」と呼び、それがあるからこそ、演奏家はひとつの作品に膨大な時間をかけて取り組み、場合によっては何度も演奏会に取り上げるし、研究者は、ひとつの作品や一人の作家について、何年もかけて研究や読解を重ねるのであるが、こういった枠組み自体が権威性を帯びており、そこからまさにこぼれ落ちてしまうものがあるのは、否定できないことだろう。
 ターが大騒動を起こす直前、レッスン室のアパートの大家の親族から、練習の音やかけている音楽を「騒音」を言われて、アコーディオンでクラスターを鳴らしながら喚き歌う場面がある。先に述べた大家とその娘の様子から、この家族には何からの問題があることが読み取れるが、やはり近い経験のある私は、この場面を見ていて、社会の片隅に追いやられていても、そういったリテラシーを鍛える機会に恵まれなかった人や、何かに向き合う余裕のない生活を送っている人、その仕組みを作った「強者」に見放されてきた人にとっては、芸術は、なんの意味もないものなのだろうか?と、自問せずにはいられなかった。
 あの学生のマックスが、属性や行為のみで安易にバッハを否定するようになったのも、社会がかれらを置き去りにしてきたことの一つの帰結でもあるのであり、西洋芸術もまた、それに加担してきたことは否めない。かれにしてみれば、自分たちの声を聴いてこなかった奴らの声を、どうしてこちらが聴かなければならないのかということなのだろう。その想いには、切実なものがある。
 実はこの『TAR』という映画自体にも、その芸術の暴力性は備わっている。冒頭のターのインタビューからして、クラシック音楽に関心のない人はここで退屈してしまうのではと思われるほど、専門的な内容が延々と続くし、ひとつひとつの場面や描写を注意深く、かつ、一歩引いた視点から物語を眺めなければ、単なる権力者の転落劇に見えてしまったり、逆に、正しさに歯向かっているだけの物語に見えてしまったりしてしまうだろう。芸術や文化、それをめぐる昨今のムーヴメントに日ごろから関心のない人、あるいはそれらを知る機会のなかった人には、それ以前に主題さえよくわからないものに感じられるかもしれない。実際、ネット上でも数々の誤読した感想やレビューを目にした。こういった、鑑賞者にある力を要求する芸術という表現形式の限界を、この『TAR』という映画芸術自体が描いているのである。これは、凄まじく透徹した自己批評である。
 もちろん、すべての人に等しく届く表現など原理的にあり得ない。鑑賞者への「親切」が過ぎれば、それはかれらの知性や感受性を信頼していないことと変わらなくなってしまう。けれども、まさに芸術を必要としているかもしれない立場の人にそれが届かないのなら、芸術は、確かに少数ではあっても、結局は、「高尚なもの」に「理解のある」人のためのものでしかないのだろうか?
『TAR』の問いかけは鋭いが、しかしこれからの芸術、表現者の在り方を考えるヒントを与えてくれてもいる。それは、公開前から話題になっていた「衝撃の結末」にある。
 ラストシーンから言ってしまうと、それは、欧米に居場所のなくなったターが、フィリピンの青少年オーケストラを指揮するというものなのであるが、ただしそれは、クラシックのコンサートではなく、人気ゲーム『モンスターハンター』の音楽のコンサートなのである。
 この結末を「キャリアの転落」と捉え、アジア蔑視、サブカルチャー蔑視と批判した人もいたようだが、それは作り手ではなく、そう感じる人のなかにそのような偏見があるということではあるまいか(この作品を「鏡のような映画」と言ったのには、そういう意味も含まれていた)。実は私自身も、これがゲーム音楽だったということはわからなかったのだが、クラシック音楽ではないより親しみやすいヽヽヽヽヽヽものから、アジアの子供たちに音楽を伝える活動を始めたというような捉え方をしてしまい、次の瞬間、これが私のなかにある文化的差別感情の表れであることに気づいて、愕然としたのだった。
 ター本人としては、これは妥協的な道だったのか、そうではなかったのか。終盤からこの結末までの描写も、やはりていねいに見なければならない。
 欧米に居場所を失ったターは、まず実家に戻るのだが、そこは「音楽家の育った家」と聞いて多くの人が想像するであろう環境とは全く異なる、ごく質素な一軒家で、ピアノも恐らくターが家を出てから一度も調律されていない様子である。そこで、自身が音楽に目覚めることとなった、指揮者のレナード・バーンスタインが開いていた「ヤング・ピープルズ・コンサート」の録画を久しぶりに見返して、かれの「音楽を理解するのに、シャープやフラットなど専門的な知識は必要ない。ただ音楽を聴けば、何かの感情に満たされる」という言葉を聴き、涙を流す。
 冒頭のインタビューで、ターは大学院時代に民族音楽の研究のため、五年にも亘ってアマゾンの奥地のウカヤリに住む先住民シピボ=コニボ族と生活し、現代音楽はもちろん、舞台や映画の音楽も手掛けてきたと紹介されていた。音楽以外にも博識の彼女は、もともとジャンルを限定しない、総合的なアーティストだったのだ。音楽をはじめたのも、エリート的な教育の一部としてではなく、自分自身がバーンスタインの演奏と言葉を聴いて純粋に心を動かされたからだった。この場面で、ターはそういう自分の原点を思い出していたのかもしれない。
 また、時差ぼけ解消のために訪れたマッサージ店が実は風俗店で、オーケストラの配置のようにずらりと並ぶ、番号札を付けた若い女性のなかから一人を選ぶように言われて、衝撃のあまり嘔吐する場面は、これまでの自らの振る舞いをはじめて自覚したような描写だったように思える。
 コンサートの日まで、ターが何の作品を用意しているのかはわからなかったわけだが、その向き合い方は、マーラーのスコアと向き合うときと変わらないものだった。そしてステージに上がる前も、冒頭のトークショーと同じように、全身に緊張感を漲らせていた。つまりターは、クラシックの作品と演奏家や、いわゆる「耳の肥えた」聴衆に向けるのと変わらない真剣な姿勢で、『モンスターハンター』のスコアと、フィリピンの青少年とコスプレをした聴衆に、向き合っているのである。
 高みを目指すなかでいつの間にか心の中に根付いてしまった、ベルリンへの執着、というより「音楽の聖地」という観念や「芸術音楽」こそ至高だという観念を手放し、ただいまいる場所で、目の前にある音楽そのものを信じて再びタクトを手に取る姿には、希望を見るべきだろう。二度目に観たときには、私はそのように感じていた。

 劇中、ターと師のアンドリスが、哲学者のショーペンハウアーもターと同じように音に敏感で、そのために女性を突き飛ばして大怪我を負わせた逸話を語る場面があるが、アンドリスは「彼の哲学と人間性の関わりはわからないがね」と言う。
 この文章のはじめから明らかだろうが、私は、表現と人間性は分けられないと考えている。表現とはそういうものではなく、ある才能が温厚な人に備わることもあれば、気性の荒い暴力的な人に備わることもあるというそれだけの話だと言う芸術観の人もいるだろう。そういう人にとっては、私の議論は、表現を属人的に捉えすぎたあまり意味がないもので、ことによると、かれらは私の話にここまで付き合ってくれていないかもしれない。
 しかし、この『TAR』がリディア・ターという主人公を通して描いたように、芸術表現を生み出す暴力的で激しい力やその権威性を帯びた枠組みは、人間としてのパーソナリティにも少なからず影響してしまうのであり、また、人間というものは複雑な存在で、そのある面と別のある面は、決して無関係ではないのだった。先日、はじめて私の演奏を聴いた面識のない人から「一つひとつの音をていねいに弾いている…ちょっと神経質なくらい」と評されるということがあったが、すでに述べたように、私にはターのような潔癖症的な神経質さがあり、その方は、それを演奏そのものから感じ取ったのである。表現と人間性とを、完全に切り離して語ることは、やはりできないのである。
 同時に、一見矛盾するように思えるかもしれないが、人間はそのようにしてさまざまな面が絡み合っている存在だからこそ、その複雑な総体をある一面だけで定義してはならないのである。あるひとつの表現物だけを見て、その表現者の人間のすべてを判断することはできないし、現実での人間としてのあるひとつの行為だけを見て、その人の表現物を評価することも当然できない。表現者への「この言動は問題だが、表現物は評価すべきだ」という見方は、そのように人間を理解したときにはじめて、ほんとうの意味で可能になるはずである。
 そしてだからこそ、私はやはり、表現者はその見方に甘えたり、逃げたりしてはならないのだと改めて思う。その表現者が、ターのようにいかに魅力に溢れていたとしても、そこは譲ってはならない。冒頭の繰り返しになるが、目の前にいる人の傷にさえ正面から向き合えない人の表現が、どうして現実が置き去りにしている痛みをすくい取れるだろう?
 単純だが、表現者が忘れてはならないのは、自らを表現へと駆り立てている衝動の暴力性に自覚的であろうと努めることと、特に表現にのめり込んでいるとき、そのエネルギーが自覚なく現実において他者にぶつけられてしまっている可能性が常にあるということである。そして、現代において何より必要なことは、「ノイズ」を受け入れ「あちらとこちら」を峻別しない、最後のターのような姿勢を取ろうとすることかもしれない。それによって、自らの暴力性は抑制され、表現そのものもよりさまざまな意味で開かれたものになっていくのではないだろうか。音楽をはじめとする芸術には確かに「静けさ」が不可欠だが、それを追い求めるあまりに、ほんとうに耳を傾けるべきものまで排除してしまうのは、本末転倒だ。
『TAR』を通じてそこまで考えていながら、私はまだ、たとえば、ある表現が「本物かどうか」という価値判断が通用しなくなる時代や世界は、ほんとうに良いものなのかという疑念を、拭いきれないでいる。劇場で二度観たあとも配信でもう一度、そしてこの文章を書くためにもう一度『TAR』を観返したが、作品への理解は深まる一方で、強い印象を残す要素がその度ごとに異なり、現実に表現者としてどう生きるべきなのかは、むしろわからなくなっていく。
 ひとつだけ確かなことは、それを芸術と呼ぼうとエンターテインメントと呼ぼうと、切実なものから生まれた「表現」というものには、こうして際限のない対話や内省を促す「力」があるということだ。


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