車椅子乗車拒否問題と権利の行使の問題
ここに記したことは、私の多面的なものの1つであります。不愉快な思いをされる方もいるかもしれないので、読まれる際は注意をお願い致します。
自分自身が、現在置かれてる状況や興味関心が合わさったものであるため、まだまだ危うい論点ですが
きっといつか考えないといけない、自分自身がそうなる可能性、自分自身が社会的成功をした際に、1つの振り返りになるようなものとして残しておきます。
よろしくお願いいたします。
そしてすみません(._.)
―はじめに―
今話題というか、炎上という形になってしまった車椅子乗車拒否問題について少し考えてみたいと思う。
私もマイノリティであるし、社会運動をしたこともある。そして、その中で戦い方や言い方に対する問題にも直面した。そして結局、上手くいくのはモデルマイノリティと特権的なマイノリティ、そしてマジョリティだけだったということも気がついてる。
下記のブログ内容を引用しながら、この問題を非特権的なマイノリティとして、そして車椅子ユーザーではないというマジョリティの視点から考えたい。また、何がこの事態を引き起こしたかもなどの自分なりの考えを書きたいと思う。
―問題の所在―
この話の発端は、下記のブログだったと思う。(あえて名前はだしません)
ちょうど、今、自分自身が考えている「マイノリティ側の加害性と特権性」の部分にピンポイントだったというのもある。
こうした問題は、連続的にムーブメントとしてやってきている。また、SNSが発達した今は、さらに短い周期でやって来ている。
マイノリティや当事者たちが、社会に溢れる差別や偏見、マジョリティを基準にした制度や構造を、変えるために声を上げることは必要である。
目に見えなかった(見ようとしなかった)ものを、可視化することは重要なことだ。
それは、権利の行使というか、奪われた権利を取り戻すため、自分たちさえ良ければいいという考えに対する変革を求めるための行使と言える。
ただ、それがどの程度まで認められるべきなのか、法律として成立してもどの範囲まで適応させるべきなのかなどの問題が残ったままである。
そして結局、権利を行使できるのは一部のマイノリティや当事者のみになっているところもある。
確かに、発展途上である限りは「今は」仕方ないし、早急に「あらゆる」人々に使用できるようにしなければならない。
しかし、そこにはお金も時間も必要で、本当の意味でマイノリティや当事者に寄り添ったものになっているのかは疑問であると考える。
なぜなら、最初から権利を行使し、法律を制定さたり、社会と浸透させられるのは、特権的なマイノリティ(モデルマイノリティ)であり、言わばマジョリティ側の一部の特権的な人々と同様のパワーを持っている人と同等である場合があるからだ。
それは金銭や地位だけではなく、発言の強さやマジョリティ性とマイノリティ性を使うことで得た幅広い社会関係資本(人間関係など)も含まれる。
ここからは問題の発端となったブログを引用しながら、きっとここが問題になったのかな? この辺がマジョリティとマイノリティ(同じ立場の人)からの許せなさが出てきてしまったのかな…などを考えてみたい。
初めにつまずくところは、あらかじめ調べて旅行に言っているのだから、問題が生じても仕方がないのにとやかくいうなという論が多いのかもしれない。
自分が車椅子ユーザーなのだから下調べをして行ける・行けないなどを判断しろ!的なのも多い。車椅子ユーザーも調べているなら予見できたこととして騒がないで欲しいというのもある。
確かに、調べているのなら分かったこともあるだろうけど、今はまだ歩行ができる私たちは調べなくても行くこともできる、危険があっても避けることができた可能性はある。2重にも3重にも調べたり、ここもダメあそこもダメとしてアクセスを辞めることになったとき、我々ならどう感じるだろうか。
それこそマジョリティの特権、何も不自由がない我々のエゴだとは思う。
とはいえ、あらかじめ難しい駅まで理解していた事実もあるため対処はできたとは思う。そして、駅員さんとの話の下りで
私「駅は公共交通機関です。駅員さんを3,4人、集めてくれませんか?」「バリアフリー法がありますよね。車いす対応をお願いします」「障害者差別解消法があり、エレベーターがない駅は、合理的配慮としてほかの手段で対応していただく法律があります。エレベーターを作ってほしいと言っているわけではなく、エレベーターがないならば、それ以外方法で対応する義務があります」
お互いがお互いの言い分をいいながらも、やはり法律をパッとだして、そうではないにしろ「対応する義務」があると伝えてしまった点が気になる点である。
ある程度の専門性を持つ界隈であったり、相手にそれなりのパワーがある場合によくやる手法である。しかし、それを一般的な人にしても、恐怖や面倒として受け取られ兼ねない。ましてや、法律を盾にして、メッセージとしては「するべきだ」と取られてしまう言い方をすると、マジョリティであろうがマイノリティであろうが話が通じなくなる確率が増えてくる。
確かに、大きな企業の駅員だから人権研修はしているはずだし、できる限りの配慮はするべきである。ただ、明らかにマンパワーが不足し、対応が難しいなかで、さらに対応を求めて場合、過剰なものへと成り下がってしまう。
そして、無人駅に他の駅から駅員を配置し、その間に別のマイノリティが苦しむことがあった場合はどうのなるかなとも思う。公共交通機関だからこそ、平等に対応しなければならないなかで、マジョリティ・マイノリティであろうと、より配慮した行動を行うことは現実的には難しい。だからこそ福祉サービスなどの別の方法が用意されている。
寝たきりの方で旅行に行った人は、そもそも車の手配やバリアーを取り払うために人を雇って行っていた。
だから現実問題として、今はまだバリアーが沢山あったとしても支援やサービスがあるのなかで、全てを公共交通機関の責任としてしたったことが問題を大きくしたのかもしれない。
日本は確かにまだバリアフリーが整っているとは言えないし、問題もあるが支援やサービスも整ってきている。それさえも受けられない人がたくさんいることも忘れてならない。
「そんなことを考えていたらマイノリティはどうするんだ!」という議論も分かる。自分もしていたことがあった。でも、マイノリティだからといって許される範囲があるし、マジョリティもまたそうである。
そもそも、発言できるからこそ色々なところにアクセスできている特権性、何か問題があっても声を大きくしようという特権性などが強すぎてしまうとマジョリティは???で頭が一杯になってしまう。マイノリティ側も、あなたのエゴで私たちが槍玉にあげられるから止めて!ということになる。
特に、ブログの方のようなモデルマイノリティの場合は、社会を変える力はあるし、運動の最前線で戦うことに対してのインセンティブはある程度用意されるべきである。しかし、本当にマイノリティの気持ちを理解して、自分の行動がどう影響するかを、実は考えられないという行動をしていることも多い。そして、そういったモデルマイノリティが増えきているように思う。
行動しなくてはならないから
変えなくてはならないから
みんなが苦しんでいるから
そういう気持ちが、自分だけの世界を良くしているかのように取られてしまうし、無意識のうちに少なからずしてしまっていることに気が付かないこともある。
それは、やはり力を持つことや支援が多く集中することで、マジョリティのそれ以上になってしまったことの現れからなのかもしれない。
そして、次の疑問になるところは
>ちなみにこのやりとりは記録のため携帯で撮影しました。
というところだろう。戦い慣れていることの現れでもあるし、どうにかして訴えようとしている戦略性も見える。
これは、モデルマイノリティしかできない。マジョリティでも難しいなかで、当たり前のように出来てしまうことは、誰でも疑問にはなると思う。
記録のためというものの、録音には同意も必要だろうし、差し迫った問題だったからとっさにというところはシビアなところだろう。
だから、実際に録音してブログにしてその他メディアにまで暴露してしまっていると、社会に対する訴え以上の攻撃性を感じてしまう。駅員さんのプライバシーは?具体的な駅名まで出てれば、駅員さんを特定もできてしまう。本当は助けたいけど逆らえなくて出来なかっただけなのに、社会には差別的な人として夜に回った際に、ケアもできるのだろうか。そこに対しての自らの加害性と特権性に気がついていないのだとしたら
本当に危険なことであるし、ほぼほぼ苦しめてきたマジョリティと変わらないのにと感じてしまう人も多いのかもしれない。
結果的に、4人もの駅員さんが助けてくれて、帰りの支援さえも要望が通っている。これは、他の車椅子ユーザーなら無理だったかもしれない。他のマイノリティの人達ならば、助けはなかったかもしれない。
本来はしっかりと対応されるべきだろうが、現実的に今はまだ困難なことを、何かしらの力やこれまでの経験をフル活用して、1人だけ実現させる姿は果たして正しいのか、正しくないのかは私には判断できないし、こんなことを言ってまかり通るって、なぜよ!!と行き過ぎた発言に致るのは、よく理解ができる。加えて、
>そしてこの移動や交渉の合間に、新聞社数件に電話をし、帰る時は取材に来てもらったので、これから記事になる予定です。JRへの取材依頼は最低一週間前だそうなので、新聞社としてはこれから取材をしていくと思います。
大きなメディアの力を使い、本来であれば不可能のことを成し遂げていき、マイノリティの総意であるかのように自分自身の発言を通してしまうとマジョリティだけでなく、同じ思いを共有するマイノリティをも傷つけてしまう。
>階段しかない駅では、時間はかかっても、駅員を集めてくれ、持ってくれるからです。車いすユーザーが利用者として想定されていないと、改めて痛感したし、これをもっと可視化していかないといけませんね。
>正直、私もここまでしたくありません。交渉したり、記録を撮ったり、メディアに連絡したり。せっかくの旅行がクタクタでした。本当に疲れました。でも声を上げていかないと何も変わりません。しかも声を上げ続け、味方を増やし、一緒に考えてもらい、たくさんの人で動いていかないと変わりません。車いすユーザーは確実にこれから増えるし、高齢者やベビーカーユーザーにとっても同じ困りごとがあるので、一人でも多くの人に知ってもらい、誰でも安心して使える公共交通機関になってほしいです。
そうして最後には本音が見えているところが、多くの人を納得させられなかったのかもしれない。
本当はやりたくなった、でもあらゆる手段を使った、私はマイノリティだからマイノリティのためにやったんだ。そして、その手段は当たり前であり、社会の構造が問題であるという言い方が、本人の本音の部分なのだと推測できる。
社会に対して訴えていくことは素晴らしいにしても、本当はやりたくなったけど私がやったというスタンスはどうなのだろうか。
その時の新鮮さ気持ちをあげることは大切である。でもやりたくないのならやる必要はないはずである。行動したくても声を上げたくてもできない人がいるなかで、モデルマイノリティとして戦う選択をした時点で、この対応は同じマイノリティとしても腑に落ちない。
戦うことのない世界で生きることを望んでいるが、戦うことで多大な利益を享受し、ほかのマイノリティが得られない特権を得ているのにどうしてなのだろうかと。
だからこそ、マジョリティとマイノリティの両方の特権性を有し、無自覚的になると強力は支配者や権力者へとなってしまう。
公共交通機関は、誰もが安全に、誰もが自分の求めるものを選択できるような環境にはない。誰かが声をあげなければならない。
しかし、言い方や対応、自らの能力の使い方や立場の使い方が、従来のマジョリティの同じ構造をしており、加害性と特権性が露骨に現れた形だから炎上したのかもしれない。
マジョリティに迎合した、お伺いを立てるような言い方を模索する必要もないが、適切な方法だったのか、一呼吸置けなかったのかなどの問題が多大に残っている。あるいは、旅行が終わった後に、適切に抗議したり、明らかなプライバシー違反をせずに、仲間と協力して訴えていく方法もあったと思う。
だって多くのマイノリティよりも、権力の行使の仕方を多分に持ち合わせているのだからできないわけはなかったはずだ。私たちマイノリティは、マジョリティがしてきたような加害性や特権性を排除しながら行動することも1つだと思う。あるいは、時と場合を選びながらマイノリティ性を出していくことが必要である。
でも、あまりにも強力なマイノリティ性を、幅広く・強固なものとしてやりすぎれば、マジョリティだろうがマイノリティだろうが理解は得られない。
手段も方法も一人で考えては危険なものになりえるし、特権性をもったことによるメリットとデメリットのかもしれない。なら私マイノリティはどうしたらいいのだろうか。
―さいごにー
今回の当事者の方は、はっきりといえば「特権性を多く持つマイノリティであり、当事者」である。たとえ、どんな政治団体にいようがいまいが、大学卒業をして、“人”としてのマジョリティ側の幸せを得て、数多くのメディアに取り上げられて、多くのマイノリティが沈黙の選択をするところをしなくて済んだという時点で、強力なマジョリティ側である。
本人はマイノリティとして行動し、身体的なハンデがあっても、行動や思考がマジョリティ側になっている。無理を通したからとか、メディアに載せたからというからの理由ではなくて、無意識・無自覚的に強力な特権性を有していることに気が付かないことに問題があるのである。
それは、今回の当事者の方に限ったことではない。私もそうであるし、多くのマジョリティもそうだし、特権的なマイノリティもそうだし、マイノリティとマジョリティ性をもつ人もそうである。
権利の行使の問題は、そこに無自覚的なマジョリティは当然に自覚的にならなければならないとして、マイノリティ自身も多くの人がどうなのかを一瞬でも思考しなければならない。
そして、特にマイノリティの特権性もマジョリティの特権性も使ってくる人は、自分自身の強力な特権性に気が付かなければ、あなた自身が加害と排除の当事者になってしまう。
今回に限らず、社会に訴えていく難しさを感じるし、自分はどうしたらいいのだろうかと悩む。
自分はモデル・マイノリティではないし、マイノリティであり不利益ばかりである。
だから、正直なこといえば、モデル・マイノリティ側の気持ちがわからないため、今回の議論もおかしいのかもしれない。だけど、やはりあまりにも強すぎる特権性はメリットにもデメリットにもなりえるし、変えられないと思う。
もしかしたら自分がモデル・マイノリティになれば、もっと違う世界があるのかもしれない。
この方法しかないといえるのかもしれない。でも、今はやはり疑問に思ってしまう。
マジョリティにとっては怖い人、面倒くさい人、許せない人たち
マイノリティにとってはどうしてあなたばかり支援が入るの?声を出せるの?と思った人たちなど
そう感じる人が炎上を招いたのかもしれない。
自分自身は、特権性と加害性の部分に目が行ってしまった。
社会を変えることは難しい、そして時には行き過ぎたことも必要であるが
常にインパクトを狙うのはどうなのだろう。
僕には明確な答えは出てこない。
でも・・・
力のあるマイノリティが権利の行使と特権を得る隅で
マジョリティが何も考えずに生きている世界で
多くのマイノリティは、今を必死に生きている
夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。