潜在的優生思想が溢れる社会でースポーツ選手のうつの公表からー
以前にも、あらゆる人々の心の中に優生思想があることを問うたものを書いた。
そうしてこのあらゆる人々の心にある優生思想は、「潜在的優生思想」という名が適切なのかなと思う。
でもなぜ、またそのように思ったのか。少しまた書いていきたい。
年齢や性別に関わらず
精神的な病というのは、よくあることである。
精神的な病を経験してない人には分からないと思うが、相当しんどいものがある。
何もかもが真っ黒という感覚というか、説明することも難しい感覚で、とにかく認識している世界が一変してしまう。
しかし、今もなお精神的な病は、「弱さ」の象徴でもある。いくら時代が変わっても、精神的な病を抱えている人や抱えた後に復帰して人生が遅れても究極の自己責任として放置される。
一方で、有名人や著名な人々が精神的な病を公表すると「できる支援をしなければ!」「復帰後の整備をしっかり保証する!」というような議論が巻き起こる。
この差は一体なんなのだろう。
どうしてなんの疑問も抱かないのだろうか。
自分自身は、これこそ”潜在的な優生思想“であると感じるのだ。
「能力のある人は何でも許される」だとか「才能がある人は守らないといけない」というのは、まさに潜在的な優生思想が多くの人の心にあるようにからこそ出てくる。
何もない人が必死になって、心が壊れちゃった時には、徹底的に自己責任や弱さとして放置されてしまう。
本来、精神的に追い詰められるほどの苦しさに直面し、助けを求めている人には手を差し伸べるのが普通のことである。
にも関わらず、なぜ「助ける/助けない」が生まれるのか分からなかった。
有名人とそうではない人には、どのよう差があるのだろうか。同じ人間なのに、同じように息をしているのに…
そもそもそんなところに問題はなくて
有名人や著名人、つまり能力があったり、価値が高い人に対しては守らなければならないという潜在的な何かがあるところに問題があるのだ。
そもそも人は価値がなければ「生きていけない」という、恐ろしい考えを皆持っている。
特に、恵まれた人達にはその傾向が強い。なかには、疑問呈している人もいるが、関わってみたり助けを求めてみると偽善だということが分かる場合が多い。
自分自身が追い込まれ、価値がないとされ、支援もない中で必死に今を生きている人達は、価値がなくても「生きていい」し、「苦しんだ過去こそ大切」ということを理解している。
けれど、恵まれた人達は、そんな苦しみも悲しみにも直面せずに来てしまったことで
恐ろしい潜在的な優生思想を問うことをしないまま生きているため、そのような考えたを無意識にしてしまう。
そして、この潜在的な優生思想の恐ろしいところは、この思想を持つものたちに追い込まれて、命の危機に会った人が恵まれた人達と同じように特権を持った時には、その恐ろしいを忘れてしまうということである。加えて、追い込む側になってしまうというものである。
結局、社会は「恵まれた者のためにある」というのは再三述べてきたが、やはりそうなのである。
もちろん間違っているからこそ、こうして発信している訳であるが、潰されてしまう。
自分自身も心の限界を迎えそうになるものの、何度も壊れていると頑張れてしまう。
でも溢れてしまうことがなんとなく分かるから、足がふと死に向かってしまうときがある。
その度に、なんで自分だけこんな思いをしてるのか、という声が聞こえて我に返るという感じである。
そんなになっても助けて貰えないのが社会である。
自分に都合の悪いことや媚へつらわない人は助けることは絶対にしてくれない。
潜在的な優生思想は、近くにいる家族や友人にもあるものである。だから、誰を信用すればいいのか分からなくなる。
こうした潜在的な優生思想の事実に気がついてるの自分ぐらいだろう。そして、その事実に気がついてる自分は助けてもらえない。
しんどいけど、今更記憶は消せない。
だから僕はもう…。
嫌だな。幸せになりたかったよ。
でも気がついてしまったんだもん。
恵まれた人達だけが救われる社会のことをさ。
夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。