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『孟子』を学ぶにあたって

現在、自分の専攻との関係上、朱子学について少しずつ勉強していますが、それを文章にし、人に説明できるようになるにはもう少し時間がかかりそうです。
ただ、自分は漢文に慣れていきたいという思いもあって、日々中国の古典に触れるようにしています。二年ほど前から、儒学に興味をもったこともあって、折に触れて「四書」(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)を読んでいました。
そこで、最近もう一度『孟子』を読んでみるとやはりこれが面白いです。記事にしたいな、というネタもどんどん見つかってきます。朱子学は大きく見ると孟子の思想を受け継いでいますから(たとえば「四端の説」を発展させた「性」・「情」の議論など)、『孟子』について勉強することは決して朱子学の勉強から逸脱するものではないでしょう。

孟子は古代中国、戦国時代に活躍した人物で、彼が自説を諸侯たちに説いて回っていたのは紀元前330~300年ほどだと思われます。一説には、紀元前372年に生まれ、紀元前289年に亡くなったといわれています。このあたりの中国史がお好きな方なら、自説を以って諸侯たちを動かした蘇秦や張儀と同じ時代に活躍していた人物、といえば時代感覚がわかってもらえるでしょうか。
『孟子』は四書の一つにカウントされていますが、古来物議をかもしてきた古典でもあります。それは、「徳を失い、悪政を行った君主のことは武力を用いて討伐してもよい」というような革命理論(いわゆる「易姓革命」の理論の一つ)が含まれているからです。
当たり前ですが、こうした理論は中国でも警戒されましたし、さらに日本は古来より天皇家の伝統を重んじる以上、そもそも「革命」などという理屈が受け入れられるはずがありませんでした。朱子の登場によって『孟子』は最重要古典の一角を占め、朱子学が盛んになった江戸時代の日本でも『孟子』は広く読まれましたが、易姓革命の理論は「日本の国体には合わない」とされました。

ただ、こうした部分だけを見て孟子を過激な思想だ、といって敬遠してしまうことはもったいないことだと思います。
たしかに、我々は易姓革命を真似することなどできません。どんな理由があれ、武力で政治を変えるということ自体、現代では許されないことでしょう。

しかしながら、孟子は「為政者が民衆に対してもつ責任」を強調していました。こちらは、時代を超えて受け継がれていくべきものだと感じます。実際、江戸時代日本の「名君」と呼ばれる大名たち(松平定信や上杉鷹山など)は、孟子等の儒学の古典から為政者のあるべき態度について学び、それを実践していたと思います。
先ほどの易姓革命の論理も、「民衆を苦しめ、その生活を脅かすような君主は為政者の資格がない(=天命を失う)」という論理が背景にあります。それが過激になると革命という方向に行ってしまうのでしょうが、民衆ベースで政治を考えていく視点は時代を問わず大切なことでしょう。

そして、僕が思うに、政治に携わらない人でも『孟子』で説かれている内容をそれぞれの場所で活かしてほしいと願っています。たしかに孟子に登場する話は王様との対話など、表面上政治向きの話が多いのですが、もう少し幅広くとらえて、「人の上に立つ者はどういう心がえが必要なのか」を教えてくれる書物、として考えてみてはどうでしょうか。
君主=社長
大夫=課長
民衆=一般の社員
というような読み方をするのも僕は全然ありだと思っています。
もっとも、政治から離れてこういう読み方をするのは、もはや儒学ではないと思われるかもしれません。

しかし、僕としては日常的に古典に学ぶ人が増えてほしいと思っていますし、政治家でもない限り、毎日のように政治を強く意識するという人は少ないと思います。
それよりも、「家庭」・「学校」・「会社」など、日々自分が直接的に身を置く共同体のことを強く意識する人が多いでしょう。そして、その共同体の中で日々悩み苦しんだりします。
考えてみれば、そのような共同体が多く集まって「地域社会」や「国家」ができているわけなので、国民を幸せにしたいと願うのならば、まず人々が身近に接する共同体の状況を良くし、そこに属する人々が苦しまないようにと努める必要があるでしょう。

そのためには政治的な取り組み(法律の整備など)だけでなく、それぞれの共同体を率いる人の心の在り方が大きなカギになってきます。

儒学や孟子を知らなかったとしても、それは何も悪いことではありませんし、孟子だけが人間学の答えだということはありません。あくまで答えの一つとしてお聞きください。

しかし、我々は規模の大小の差こそあれ、人を動かす立場に立つことが必ずあるでしょう。身近な例としては、友人になにか頼みごとをするというのもこれに入ると思います。また、全員が経験するわけではないでしょうが家庭における子どもの教育もこれにあたります。

こうした場面において、人を動かす側の者が自分の欲を通すことだけを考え、相手の尊厳を踏みにじるようなことをしたらどうなるでしょうか。
相手を苦しめるのはもちろんですが、長期的に見ると自分も社会的な信頼をうしなったり、相手から憎まれたりなどして苦しむことになるでしょう。
これは、『孟子』にも説かれている論理です。

僕は人生経験が短いですが、それでも「この人は能力はあるのに人の動かし方、人との接し方で損をしているな」という人を見てきました。

ところが、こういった、人を動かす際の心構えといったたぐいのことは学校教育ではなかなか教わる時間がないはずです。それは制度上仕方のない部分もあると思いますし、別に学校の先生を批判するつもりは全くありません。

ただし、社会の各共同体の中で自分の欲ばかりを優先して人を動かそうとする人が増えたらどうなるでしょうか。衣食住に困らなかったとしても、そういう国を豊かな国といえるのでしょうか。
そう思うと、「人の動かし方について知らない」、もしくは考えようとしないということは大きな問題だと思います。
もちろん人に学びを強制することはできません。それでもやはり一人一人、学派は問いませんが人間学といいますか、自己の心の在り方や人との交わり方を教えてくれる学びが必要だと思います。それは、社会の為だけでなく、ゆくゆくは自分にとってもプラスになるはずです。

次回以降、『孟子』の本文に触れていきますが、それを通じて微力なれどもこの問題解決の一助になりたいです。



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