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あの坂ですれ違うだけの君がいた場所

彼の筆跡を人差し指でなぞる。
その指先の動きで、彼の腕に初めて触れた、あの坂での記憶がゆっくりと甦る。


……なんて思い出とはほぼ無縁の物語。

これは、わたしが25、6歳の頃の実話。

毎朝のルーティーンは、通勤のため家から駅まで自転車で疾走すること。
その途中で横断する国道までの道のりが、結構な登り坂だった。
いつもいつも時間ギリギリ。髪をふり乱し、早くもメイクが崩れかかる顔を必死の形相で歪めながら、ぜいぜいと自転車のペダルを踏み込む。

その坂道には、ほぼ毎朝すれ違う青年がいた。
わたしとは、方角も様子も真逆の人。
彼は駅の方からやって来て、国道を涼しい顔でゆったりと横断し、坂道をリズミカルな足取りで下ってゆく。

色白で、丸みのある優しい輪郭の顔に、少しクセのある亜麻色の髪。宗教画に出てくる天使をそのまま大人にしたような風貌だった。
その可愛らしさとはうらはらの、広い肩幅に引き締まった白い腕。筋肉質を思わせる長い足がぴったりとおさまったジーンズ。

そんな可愛くて格好いい彼だったけど、毎朝見かけるたびに胸をときめかせながら……ということは、嘘でも強がりでもなく、本当に一度もなかった。
わたしには彼氏がいたし、そのうえ年上好きだった。
それに、もしも恋していたのなら、自分の失態を毎朝のように晒したりしない。


ただ、あまりにほぼ毎日見かけるので、いったいどこへ行くのだろうと気にかかった。

高卒で就職し現在5年目といった、若いのに落ち着いた雰囲気。スーツではなくカジュアルな私服姿で、ザ・会社員には見えなかった。
いわゆる田舎でお店も家も少ない地域なら、行先の見当をつけられたはず。
それなりに学校も施設も店舗も栄えていた街でそれは難しく、彼の行き先はまったくわからなかった。

漫画でも小説でないので、パンをくわえたわたしが彼にぶつかったり、彼が落とした財布を拾って身分証を見つけたり、という面白い事件は起こらなかった。

本当に、ただただ毎朝同じ時間に、文字どおりすれ違うだけの人。


そんな朝が、少なくとも一年以上続いた。
さすがに彼の方も、いつも自転車でやってくるよれよれのお姉さん、という程度には認識してくれてたんじゃないだろうか。


そうして、彼とは特に何もないまま結婚して引っ越した。
結婚相手は、先に書いた彼氏とは別の男。
狭苦しい家を出て、大嫌いな名字に別れを告げられる。
舞い上がっていたわたしは、嬉々として諸々の手続に励む日々を迎えた。

通勤であの坂を通ることは、キレイさっぱりなくなった。



そんなある日。


ついに、彼の勤め先を知った。



通帳の名義変更で訪れた、両親の家から徒歩5分の郵便局の窓口。
なんと、そこに彼が座っていたのだ。


あんなに毎朝遭遇した美少年の顔を見間違えるわけがない。
半袖の制服の袖から真っ直ぐのびる、白くて逞しい腕も。

両親の家から駅まで、徒歩15分。
人によっては、徒歩でも苦にならない。

わたしが毎朝自転車で通った道を、彼は毎朝この郵便局まで歩いていたのだ。


全然知らなかった

こんなにすぐ近所で働いてたのね

わたしが都心にいる日中、
あなたはずっとここにいたのね


話しかけたい衝動を抑えながら、通帳を彼に差し出した。 


彼は通帳を手にすると、手際よく書き換えを始めた。
その素振りと笑顔には、窓口業務以外の何も感じられない。


何とも言えない気分で、彼の仕事を見守っていた。

郵便局の手続は全国どこでもできる。

たまたまこの日、両親の家に行き、その足でここに来た。
そして、窓口は他に2つあるのに、順番で呼ばれたのは彼の所だった。

知らないままで終わっていてもおかしくないのに、こうして答え合わせが降ってきた。

ニアミスだらけのこの彼とは、それ以上何もない。



先日、引き出しを整理したら、その通帳が出てきた。

大嫌いだった旧姓から大好きな名字の名前に、あの彼が書き換えてくれた。

その筆跡をあらためて目にしながら、まだ郵便局にいるのか、それとも他の仕事をしているのかと思いを巡らせた。

通帳は処分せず、まだ手元にある。

彼を忘れたくないというよりも、不思議な繋がりやちょっとした奇跡がこの世にあるってことを、この先も信じていたいから。
この通帳は、それを静かに物語る証拠品だ。



そして。


人生って、先のことは本当は何一つ決まっていない。
何が起こるかわからないから、人生は楽しいと言う。
だから、死ぬまでにまた、『こんなことがあるんだ』という心踊る出来事に、きっと出会えるはず。

そう、信じたい。




彼の居場所を、
この空は知っているのだろうか





ここまで御覧くださった皆様、
貴重なお時間ありがとうございました!





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紫葉梢《Shiba-Kozue》
より良い日々の路銀にさせていただきます。いつかあなたにお還しします😌