叫声の名残 田中さん
「泉鏡花、読める?」
ふいに尋ねられた。はじめて交わした会話で印象的だったのでよく覚えている。
「はい」
「何が面白いの?」
「文体じゃないですか」
「ふうん」
田中さん、という学生だった。一年前は同じクラスにいて、確かバレー部に所属していた。男女垣根無く仲良くなれるタイプで、カーストが高い人、という印象。読書家のイメージは無かった。
進級した後の図書委員会では、田中さんと組むようになった。教室ではよく喋る印象だったが、委員活動中は大人しかった。仕事熱心なのか、相手が私だからなのかは考えたくなかった。田中さんは時々私に作家の名前を挙げて何が面白いのか尋ねてきた。私はなるべく私見を含まない解答で、話が膨らまないよう注意していた。ある日、田中さんからいつもと違う問いが来た。
「これ読んだことある?」
マーク・ストランドの『犬の人生』翻訳は村上春樹だった。
「ないです」
「あ、そう」
「春樹好きなんですか」
「誰それ」
会話はここで終わった。そういえば田中さんはクラスの女子と犬の話をしていた気がする。私は寝たふりをしながら、よく田中さんの声を聞いていた。当時はうるさいとしか思っていなかった。
二学期の終わり、冬休みを目前とした頃、変わったことが起こった。いつもの如く誰もいない図書室で、田中さんが声をかけてきた。
「犬好き?」
はじめて、本以外の事を尋ねられた。私は驚いて黙してしまった。聞きとれなかったと思ったのか、田中さんは繰り返した。
「犬、好き?」
「別に」
「嫌い?」
「見るのは好きです」
「うん」
「飼うのはちょっと」
「なんで」
「看取りたくないから」
「ああ。だよね」
応酬の最長記録を更新した。ここでお互い沈黙した。田中さんとの沈黙は苦ではなかった。むしろ言葉を交わす方が妙な緊張感が伴う。でもその時の沈黙はいつもと違って、妙に張り詰めた空気があった。突然、田中さんが私の太ももの上に手を置いた。びっくりした。その手は布越しでも分かるくらいに温かかった。田中さんは俯いて、前髪で目が隠れていた。
私はなんとなく、直感した。飼っていた犬が死んだんだ。この人は今喪に服しているんだと。私はそのまま沈黙を続けることにした。はじめて同級生を可哀相に思った。あのカーストが高い田中さんを慰めるのに私の太ももが役立っている。何とも言えない高揚感と気持ち悪さがあった。
暫くしたら図書室の扉が開き、田中さんはその手を引っ込めた。その後、何事も無いようにいつも通りの業務を終え、二学期が終わった。三学期も田中さんと司書をしていたが、以前より二人の間の沈黙が増えた気がした。進級すると、田中さんは図書委員を辞めてしまった。
この出来事を今振返って見ると…自意識過剰かもしれないが…あれは田中さんなりのアプローチだったような気がしてきた。当時はその可能性を微塵も感じなかったが、よくよく考えれば田中さんが犬を飼っていたなんて話も聞いたことがなかった。実際のところ、よく分からない。多分確かなのは、私は田中さんに余り興味を持っておらず、田中さんとの沈黙だけを心地よく感じていた、ということだ。
今の私なら田中さんに「私も泉鏡花苦手です」と答えられるのに。
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