芸術の本質に「寂しさ」をおく…(日記 2024/10/24 木)
昨日から期間限定でマクドナルドの辛ダブチが復活していて、すでに5個も食べてしまった。いいかげんにしたい。
衆院選非公認の裏金議員に対して2000万円が支給されていたことをすっぱ抜いた赤旗の報道に対して、アホの石破が「報道に憤りを覚える」と逆ギレし、選挙に使う金ではないと。なんど呆れさせるつもりか。そんな詭弁が通じると思うこと自体、私たちを舐めきっている証左だ。本当にさっさと死んでくれよ。国が国ならとっくに殺されているはずの人間ばかりが蔓延っている国だここは。
引き続きちまちま読んでいる千葉雅也『センスの哲学』に、芸術には根本的な寂しさ=不安=不在=予測誤差があるという考え方が出てきた。芸術の本質に「寂しさ」をおく議論はあまり見ない。思い出すのはたしか「淋しさ」を重要視していた西脇順三郎の詩論だ。
淋しさ、寂しさと一言にいっても、その内容や喚起するイメージはいろいろだ。隠喩としての寂しさの中でもいろいろだし、換喩としての寂しさの中でも。代表的なイメージは次の2つのようなものだろうか。
あるべき(あってほしい)はずのものがない(奪われている)ことによる欠如による寂しさ。失われているその対象に焦点があたっているように見えて、逆説的にそれに執着する存在としての自分を映し出す鏡としての寂しさ。
広い空間のなかでぽつん自分独りであるという寂しさ。逆説的に宇宙の広大さを喚起し、自分の孤独を出発点にしているにもかかわらず、宇宙=世界そのものの存在をむしろ強く意識させる寂しさ。
同じ「寂しさ」という語が喚起するイメージでも、正反対である。
それらに加えて、私は次のような「寂しさ≒涼しさ」の感覚を大切にしている。
暑い夏が終わり、秋を知らせる風が窓から入り込んで身体を撫でるときのどこか心地の良い寂しさ≒涼しさ。長いあいだ過剰なものたち(熱、蒸気、光線、湿気)につつまれていたのに、それがふっと消え去って、それまで過剰さに満ちた周りの空気に溶け出していた自分という個体の輪郭が、細い線ですっと明確になる瞬間の感覚。過剰なもので強制的に世界に滲み出ていた自分がその形を取り戻して個としての形を取り戻す=世界との境界線が引かれる感じ。時間と渾然一体となっていた身体が、ふと時間の"なかに"あることをあらためて知る瞬間。そういった喪失とも孤独とも違う寂しさ。
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