極私的なわが内なるケンジョウトオる
「なんだか’けんじょうとおる’みたい」
「見城徹」さんという字面と「けんじょうとおる」という音が一致せず、一瞬戸惑ったことが見城徹さんが「わたしごと」になった瞬間でした。
見城徹さん。幻冬舎の強面ストイック社長。演出もあり「憂鬱でなければ仕事じゃない」の表紙の怖い写真からして個人的には心を閉じておりました。
「なんだか’けんじょうとおる’みたい」
は滋賀に琵琶湖のロードバイクイベントに出たついでに近江牛を食べながら予祝の会に参加をしていた時でした。
たしかどなたかが「本を書く」ことを予祝として言っていたのに反応して、「ああ、そのテーマはおもしろい、あなたは●●という経験をしていてしかも、こんな状況にある。そんな人は他にいない。個人的にはその本を書いてほしいし、あなたでないとそれはかけない」みたいなことを口走っていたらしいのですね。
その様子をみていた他の参加者の方の「なんだか’けんじょうとおる’みたい」なのですね。
そもそも突如見城さんを思い出したのは、昨日facebookでとある記事を読んで朝から火をつけられてしまったから、なのですね。
なんだか何をどうしていいのかわからなくなって、コメントを連投してつけてしまい、その後もおさまりがつかず、悶々と過ごしていたのです。
そんなところへふといつもゴルフで一緒になる後輩が、「上司がこの本を読め、とか言って勧めるのはパワハラですよね」とLineしてくるのに対して「’憂鬱でなければ仕事でない’とかがデスクにおかれてあったら最高にパワハラかもね~」などと返信。
その頃はおふざけ気分でいたのになぜか気になって本屋で見城徹さんの「たった一人の熱狂」と「異端児の快楽」を見つけ、なぜか購入。
なぜだかどんどん読み耽ってしまい、(なにしているんだろう?)と思っていてふと気づいたのです。
(あ、朝のあの投稿だ!)
その方の投稿や書籍にはなぜかこうやって火をつけられてしまうのです。
以前もそんなことがあり、
なぜかいてもたってもいられなくなり「脱毛サロンに申し込みをしてしまった」ことがあるのですが、今回はその2回目ですね。
で、見城さんの本を読んでいてわかったのですが、こういう風にいたたまれない、いてもたってもいられなくなって、文章を書いてしまう。これは「救い」なのだそうです。
知らぬ間に心に火をつけられて(火がついて)何かしでかしてしまいそうになる。
思いとどまった、踏みとどまったつもりでいて、すでに手遅れで、実は気づかないうちにもうしでかしてしまっている。
本当にしたいこと、というのはこんな風にして行動して実現していくのだと思います。
一方でなぜいつもいたたまれないのか?
いつも唐突に火をつけてくれるモチベーターの方ですが、ストレートには「お客様の声」みたいなことを書けないのが心苦しいのです。
たとえばでいうと電気やさんのセールスマンさんなら「お陰でいい調理器具を買ったら高いと思ったら病気がよくなって安上がりだった!最高!●●さんにして接客してもらえた私はラッキーでした!」みたいなのがいいお客様の声、ですよね。
自分の場合、電気やにいってセールスしてもらったら、刺激を受けてマッサージ師になれました!あのときセールスしてもらったおかげです!みたいなところがあります。それでいたたまれない。
でもこの心苦しさが創造性の源泉にもなっているわけです。それはまだまだ苦しみぬいていないからだ!と言われそうですが、個人的には嫌いな心苦しさではないのもまた事実なのです。