彷徨と迷走。そして、あの頃の日々。
大袈裟な題名。
だけど、自分にとっては、どうしようもなく不安で、宛てもなくさ迷い続けていたあの頃を
あの無気力に塞ぎ込み続けた日々を、
どう表現して書き綴ったらいいのか、未だに分からない
「 自分は その度に仕事を転々とし、
人間関係に病んで、" ひきこもり "をしていました
当時はとてもつらかったです 」
文章にすれば、たった三行で終わる
ただ『それだけ』の出来事。
人からすれば、「あー、そうなんだ」
「大変だったね。」
という言葉で終わるような。
今回のnote. は、僕がどんな経緯で
" ひきこもり "となってしまったのか
その当時の出来事や、そのときどんな気持ちで過ごしていたのかを、" 何回かに分けて "、ひとつづつ 書き綴りたいと思います。
見苦しい部分もあるかとは思いますが
当時のことを振り返りながら、なるべく本音で書きたいと思います。
誰の為でもなく、自分自身の気持ちに、
" けじめ "をつけるために。
専門学校を卒業後。
僕は両親が望んだ分野の仕事には就かなかった。
両親の期待を半ば裏切るかたちで、
友人たちが働いている、自動車部品製造の下請け会社に紹介を通して貰い、就職をしたのだ。
専門学校に入学した時から
「この学校に進学して失敗した…」と心のなかで思っていたのが、正直な本音。
「どうしてもこの仕事に就きたい!」という明確な気持ちも目標もないまま
引っ込み思案で、まるで自分の意思などなかった自分は、両親が口を揃えて言った
「将来、お前は ひとりで出来る職業が良いだろうから。」という説得に対して要領を得ないまま生返事をし、
その専門学校をすすめられるがまま、半ば適当に 進路を決めてしまったのだった。
(↓)
本当のところを言うと、専門学校も休みがちではあったし
そのせいで、勉強も実技も、まわりより何テンポも遅れていたこともあってか、授業にはようやくついていける程度の技量しかなかった。
それでもなんとか国家試験を受けて資格も取得はしたが、それを生かした仕事に就くことは、その後 一切なかったのだった……
「 自分はなんて" 親不幸 "な人間なのだろう……」
そう 自分を責め苛んだ気持ちもあったが
まわりが高校を卒業して、すぐさま地元の工場で働き出している現実を前に、
当たり前のように進学をすることが出来た自分の恵まれた境遇に少しだけ、優越感に浸っていた自分が居たことも、事実ではあった
そして、幼少期からの両親とのいびつな親子関係を理由に
自分のなかの罪悪感や責任感のなさを、「両親が勝手に自分の進路を決めてしまった」と責任転嫁していたのも、あの頃の自分の偽りのない本音だったようにも思う
歪んだ愛情で育てられた人間は、歪んだまま育まれた愛情を、また親へと返してやるのだと……
あのとき、ずっとそう思っていた。
どれだけ迷惑を掛けてもいいだろう。と。
学校に通えていること、ひとり暮らしをさせて貰っている事に、金銭面ではとても感謝をしていたが
それは、両親が自分に対して行った
単なる『先行投資』なのだと……ずっと思っていたのだった
両親が望んで提示した生き方を、失敗をすることもなく そのままなぞらえるように……
命令をされるがまま、人形のように生きていた
そんな自分自身だったのだと思う。
専門学校を卒業してすぐに。
二人の友人たちと一緒に、地元の下請け会社で数年間、一生懸命に働いた。
賃金が発生する以上、適当な仕事をすることはできなかった。
何よりも、自分が携わった仕事に対する責任がついてまわることを嫌でも覚えた。
専門学校のゆるい雰囲気とは打って代わり、言い訳の利かない労働や職場の人間関係というものに、僕は必死になって、がむしゃらにしがみついていったのだった。
厳しいが面倒見の良い親方や優しい友人たちと共に、汗や油や金属の擦れた汚れにまみれて働いていたあの時代が、今となっては酷く懐かしい
専門学校でゆるい時間を過ごしていた、甘ったれの自分とは対称的に
先に社会経験を積んでいた友人二人の働く姿が、とても逞しく、頼もしくも思えていた。
小さな下請け会社だったが、友人たちと一緒に肩を並べて働けることが、とても誇らしい気持ちだった。
あの当時の出来事を書きたい気持ちはあれど、気持ちの整理がつかず、未だ振り返れてはいないけど…
それも追々、書き綴っていきたいと思っている。
" とある出来事 "をきっかけに
お世話になったその会社を半ば飛び出すようにして、
そこから僕は、" 人生 "という上り坂から みるみるうちに転落をし……
自暴自棄で、荒んだ人生を歩んでしまうのだった。
自動車部品の下請けの会社を飛び出したあと
自分がハローワークで選んだ次の仕事は、隣町にある、" 貴金属加工の会社 "だった。
端的に結果だけを言うと
この会社も、"1ヶ月と経たずにすぐさま辞めてしまった "のだった。
ハローワークで求人票を刷り、窓口で紹介をして貰い、会社へと赴く。
簡単な面接と職場見学をさせて貰い、すぐさま働く事になった。特に何の問題もなかった。それまでは……。
その会社は親族経営だった。
小さな工場(こうば)といった感じで、職場の人数も少ない。
若社長は自分よりも年齢が少し下だったが、職場は その20代の若社長が采配を振るっていた。
まだ若いが、人当たりが良くて優しい雰囲気の若者。といった感じだ。
彼の父親(社長)はあまり口出しをせず、彼の采配と自主性と成長を見守るように、一歩下がって現場で様子を見るような、バックアップとしての側面が強い様子だった。
この、貴金属加工の職場で携わった事といえば、金属を酸洗いの機械にかけて時間を計り、それを取り出す…… という簡単な手順を繰り返し行う作業だった。
あとは、金属の焼成の作業補助。
加工された貴金属(ネックレス)に白い粉の薬剤を塗布し、それをベルトコンベアに並べて載せて、高温で何度も焼いて耐久性?を仕上げるという作業だったと思う。
一緒に組んで作業をしていた地元の若者は、自分より半年前くらいに入社をして、それなりに頑張っているようだった。
お昼休みの休憩中に、
「この会社はどうですか?」と訪ねると、彼は
「まぁ、普通っスね」
「自宅から近いし、働く場所があるだけいいスね。」と、元気よく弁当を掻き込んでいた。
あるとき。
新しい作業を覚えて貰いたいから。と若社長から申し出があった。
別な作業場へ案内されるようについて行くと、そこにはひとりの堅物そうな老人が難しそうな機械を使って独りで作業をしていた。
若社長は「○○さん、新しい人を連れてきましたよ」
「教えてやってくださいね。」と自分を紹介すると
その老人は「おう。」とだけ小さく返事をする。
若社長は退席をし、その場には自分とその老人だけ。
老人はおもむろに機械を使ってそれとなく作業をこなすと、これは貴金属を伸ばして裁断する作業工程だ。と言う
突然。「やってみろ」と言い出す堅物の老人。
まだなにも教わってないですけど!とも言えずに、うろ覚えで作業の手順を慌てて真似てみるも老人は、
「何やってんだ!馬鹿野郎!!💢」と
新米の自分を感情任せに、いきなり怒鳴りつけて来たのだった。
「今やってた事、なんも見てなかったのか?!💢」
「大事な品物に傷をつけるつもりか!💢」
「お前の給料で、これ(貴金属)を台無しにした落とし前、つけられんのか?!💢」
「やる気がねぇなら帰れ!迷惑だ!!💢」
と
半ばキレ気味に癇癪を起こして、言われるがまま、弱気な自分は
「あっ……えっと……」「すみません……」と小声で呟き、突然の暴言に俯いたまま、そそくさとその場を退席したのだった。
正直な話。
まるで意味が分からなかった。
当時の自分は。
「いまやって見せるから 見てなよ。」とも言わずに、しかもおもむろに一回作業をしただけで 難解な手順を正確に覚えろ。と言う。
激昂した老人の顔を直視する事もできず……
なんだかよくわからないうち、青天の霹靂のような出来事に、情けない自分の存在にいたたまれなくなった僕は
わけもなく涙を流しながら…
振り返る事もなく勢い任せに会社を出、
そのまま宛てもなく車を走らせ
文字通り" 仕事を放棄 "してしまったのだった……
あれから。
いろんな職場を転々としてきた自分が言えることは、
おそらく、あの老人は「本気でここに骨を埋める覚悟がない若者だ」と言うことを、見透かしていたのではないだろうか。と思う
または、「この若者に、自分の仕事(居場所)を取られてしまう」と言う恐れもあったのかも知れない。
若社長には采配を振る権限があったのだろうが、職場の人間関係をまとめる器量はなかったのだろうと当時の事を振り返ってみて、あらためて思う。
あくまで臆測ではあるが
あながち…… 間違いとも言えないのだろう。
思えば、別な日に別の部署へ道具を借りに行ったことがあったが
狭い部署のなかに入り
「忙しいところすみません。道具を探してるんですけど……知りませんか?」と
申し訳なさげに3人の内職さんに話し掛けてみるも、
3人はこちらを振り返るわけでもなく、ただ黙々と作業をしながら、黙って指でその道具の有りかを示すと、ひと言も会話をすることなく、僕は「ありがとうございました……」と告げると そそくさと退出した事があった
社会経験が足りない自分ではあったが
「なにかおかしな雰囲気の会社だな……」と思った記憶がある。
親族経営の会社は働きにくいよ。とまわりの人たちに言われてはいたが、きっと、いろんな忖度や人間関係のパワーバランスがあるのだろう……とそのとき何となく察したのだった。
あのあと。
家にも帰れずに、ただ呆然とひたすら 宛てもなく車を運転していた。
途中で若社長からの着信があったが
とてもじゃないが、電話にでる気にはなれなかった……
しばらく運転をしながら、ひとしきり涙を流したあとに冷静になり、申し訳なさも伴って
仕事が終わった夕暮れの頃合いを見計らい、若社長に、あらためて謝罪の電話をしたのだ。
そして、" 何があったのか "を素直に話した気がする。
若社長は、
「ああー、○○さんは頑固で口が悪いから。」
「悪いひとではないんだけどね……」
「僕も、一緒に居てあげられなくて申し訳なかったです。」と逆に謝ってくれたのだった。
それが申し訳なくて。
泣きながら若社長に何度も謝罪をし、
「また皆さんに迷惑を掛けてしまうし、許しても貰えないだろうから…… (会社を) 辞めます」
「短い間でしたが、いろいろありがとうございました……」と
若社長と僕は、互いに謝罪をしながら、電話を切ったのだった。。
最後に気遣いの言葉をくれた
「あんまり気にしないでね。」のひと言が、とても優しかったぶん
酷く申し訳ない気持ちにもなったのだった。
貴金属加工の職場での一件以降、僕はしばらく実家に" ひきこもり "続けた。
恥も外聞もなく。
ただひたすらに病んで 自分を責め……
外界を閉ざすように、ひたすらに塞ぎ込み続けていた……
両親は眉間に皺を寄せては世間体をとても気にし、自分に対して厳しい言葉を投げ掛け
まわり住んでいた親戚たちは、会うたびにそんな自分に対して蔑むような視線を送り…
まわりの誰しもが、
自分に対して陰口を言っているのではないか…… と
僕は人知れず周囲や自身に対して、不信感とフラストレーションを次第に募らせていった……。
何よりも自分自身が
自分という存在を、必要としていなかった
自分を信じることが、出来ないでいた
まわりの人たちがすべて、自分を嘲っているような……そんな気がしていた。
あの当時。
湿った風に晒されて
酷く病んでいることに、
自分自身でも、気が付くことが出来ないでいたのだと思う
しばらくひきこもり続けたあと
休んでいた間も 心は決して休まらなかったが、
自分はまだ20代であったし、将来に希望もあれば 心の傷も"まだ"深くはなかったこともあってか、
めげずにまた、次の仕事を探す事にしたのだった。
次に自分が選んだ会社。それは、
以前にもnote.に書いた、
地元の" 額縁の製造工場 "だった。
その会社は同じように身内経営の小さな会社ではあったが、結果として、たった二週間ほどしか働くことが出来なかったあの会社での出来事は、自分のなかでは未だにトラウマになってもいる。
(↓)
あの『イカレた会社』に早々に見切りをつけて、心を病む前に逃げるようにして 辞めはしたが……
それでも、短期間に理不尽なトラウマを心の奥深くへと突き刺された恐怖心は、どれだけ時間が経っても決して拭えず……
" 対人恐怖 "の症状が、徐々に僕の精神を、蝕んでいったのだった……。
恥ずかしい事に、僕は理不尽なトラウマを経験した会社を次々に辞めたあと人間不信に陥り…… しばらくの間、次の就職活動をすることが出来ないでいたのだった。
そんな様子に痺れを切らしたのか
父と母は、となり町で農家を営んでいる親戚に連絡をし、半ば強引なかたちで 自分に対して
「繁忙期だから、アルバイトをしてこい」と仕事を無理矢理取り付けたのだった……
気は乗らなかったが、それでも顔見知りの親戚という事もあってか、不思議と行きたくない。と拒否するほどは、思わなかったような気もする
その時期は確か、" 梨の実の剪定 "をする季節で
子供のいない二人の中年の親戚夫婦の農作業の手伝いをするという名目で駆り出されたのだった。
親戚の農家へ赴くと
「おう、来たのか。」とおじさんが無愛想な表情で言う
「来てくれてありがとう。」とおばさん。
(おばさんと呼ぶにはまだ若かったが。)
ある程度広い敷地には、梨の木が等間隔で植え付けられていて、その枝葉には幾つも、若緑色の小さな" 梨の赤ちゃん "が実っていた。
ある程度選定をしないと、大きさも甘さもバラけて、品質が下がってしまう。という説明をされていたような気がする。
とりあえず余分そうな実はもぎ取って、バランスを調整してほしい。と言う作業らしかった。
作業は朝の8時から始まり、夕方の16時~17時くらいまで。
その時期はとても蒸し暑く、汗だくになって作業をしていた記憶があるが、いつ頃の季節だったのか 今となっては記憶が酷く曖昧だ。
アルバイトに駆り出され、1ヶ月とはいかないまでも、剪定の作業がひととおり終わるまで、通い続けていたと思う。
基本的に、作業するのは中年の夫婦と自分。そして、おじさんの姉夫婦が、助っ人として参加する程度だった。
早朝から剪定の作業をし、昼食はおばさんの美味しい和食料理を その都度ご馳走になっていたので、お昼ご飯の食費はかからなかった。
最初は母が作ってくれたお弁当を持参していたが、親戚の間柄と言うこともあり、次第にお昼ご飯をご馳走になっていった気がする。
その当時、人間不信に陥っていた自分は 通いはじめの頃、お昼の昼食は自分の車のなかで食べていた
自分が幼い頃から、お彼岸やお盆には家族で訪問をして挨拶もしていた親戚の間柄なのに。
そう考えると、あの頃の自分は、" 人との関わり "を酷く避けていたのだと思う。
きっと、誰かと関わることで、自分が傷付くことを 恐れていたんだろうな。
その様子を見かねたおばさんは車までやってきて、「家に入ってゆっくり休んだら……?」と優しく声を掛けてくれたのだった
あのときの気遣いが、当時の自分にはどれほど有り難かったか分からない。
塞ぎ込む自分の心の扉を、そっと叩いてくれているような気がした。
あまり遠慮し過ぎてもおばさんに対して失礼だと思った自分は、
それからと言うもの、一緒に過ごすことに次第に慣れていった。
まだまだ気恥ずかしさや情けなさは抱えていたものの、それを気にするのにはあまりにも
おじさんやおばさんたちは、自分が抱えている人間不信の問題とは無関係過ぎたのだと思う。
お昼のニュースをテレビで見たあと、少しの仮眠を皆でとってから、午後から夕方までの作業を再開する。という1日の流れだった。
相変わらずおじさんは無口で寡黙だったが、それを補うように、おばさんは僕に対していろいろ話し掛けたり気を遣ってくれていたのだった。
おじさんの姉は気さくでお喋り好きな事もあってか、作業中でも休憩中でもずっと喋っていたけど、僕にはかえってそれが安心出来たというか、心地よくもあった。
良い意味で、こちらを気にしていない。という事が。
その人の旦那さんはトラックの運転手をしていたが、仕事が休みのときには同じように助っ人として作業を手伝いに来てくれ、笑顔で僕にも話し掛けてくれたりと、大柄な背丈とは裏腹に、冗談好きで、とても気持ちの優しい人であった。
(あれから月日が過ぎて、トラックのおじさんも亡くなってしまったけど、
僕は、あの人の懐の深さや優しい笑顔を忘れてはいない。)
ある日の土曜日。
ほかの親戚たちが「仕事が休み」だと言うことで、一挙に農家の手伝いの人員が集まったことがあった。
そのなかには、自分の遠縁の親戚で、小学校からの同級生の(クラスメートだった)女性もいた。
名前を 芳江ちゃん、と言う。
小学校の頃はクラスメート同士の男女の仲も良かったので、その女の子とも仲間内で何度か遊んだことがあった。
その娘が遠縁の親戚だと知ったのは、だいぶ後になってからのことだった。
お互いに気づき顔を合わせると
ぎこちなく「久しぶり」と挨拶を交わす。
小学校の頃とは裏腹に、大人になった自分たちは、酷く他人行儀だと そのとき感じた。
" 親戚の親戚たち "が手伝いとして集まり、
その大人数の尽力と成果もあってか、梨の剪定作業はほぼ大詰めを迎えていた。
強い日差しが降り注ぐなか、ひとしきり皆で作業を仕舞い終えたあと
せっかく集まったのだから。という事で、皆で焼き肉をして打ち上げをする事になった。
いつも、食事は自分を含めて3人ないし4人。
今日は同級生の子とその家族、そして、"その他大勢"の親戚たち。
どこから何処までが親戚なのかもあまりよく分からないまま、自分の苦手な" 会食 "が始まった。
会食はというと、自分の存在はこの親戚の集まりのなかでも"イレギュラー"な方だと思ったので
なるべく自分に皆の注目が集まらないように、その肩身を狭めて、ただ黙々と、鉄板で焼かれた肉や野菜を機械のように口に入れていたのだった
皆が笑ったタイミングで自分も愛想笑いをし
皆が相槌を打ったタイミングで、自分も うんうん。と同じように相槌をうつ。
それが自然にできていたような気がしていた
…………のだが。
ふと、誰かが
「○○くん(俺)と芳江って、確か同級生だったよね。」と話しをこちらに振りだした。
話しを振ったのは、彼女の母親だったかも知れない
慌てて「は、はい。」「小学校で同じクラスメートでした」と答える
「○○くんは、いま何処で働いてるの?」と訪ねられ
すかさず、「実は前の会社、辞めちゃって……」と動揺を隠すようにして答えると
「そうなんだー」とそれぞれ飲み食いをしながら、皆が相槌を打っている
皆から、「やっぱり人間関係?」と尋ねられ
「は、はい…… 恥ずかしい限りですが。。」と苦笑いをしながらヘラヘラと俯く。
ふと、その様子を見た芳江ちゃんが一言。
「たかが人間関係ごときで、仕事辞められるって幸せだよねー」と思わぬことを口にした
「うちは親父と同じ会社に派遣で勤めてて、(お金がないから)辞めたくてもやめられないのに」と
いつになく辛辣な言葉を、視線を合わせるでもなく、自分に対してそれとなく投げ掛けたのだった
その様子に、彼女の父親も思わず" ごめんな。"と言わんばかりに苦笑いをする
そんなことを大勢の前で言われるとは思っても見なかったので、自分は
「そうだよね…………。」と
ただ相槌を打ち、黙って認める事しか 出来なかったのだった。。
そのとき。
不安やフラストレーションを抱えながら生きている人間は、決して自分だけではないことを、まざまざと悟ったのだった。
分かっているようで、実は自分のことしか 見えていなかった……
分かっていなかった…………
端的に言うと、世間的に見て、自分は何処まで行っても" 甘ちゃん "なのだ。
騒がしく飲み食いをしていた食卓が、しん……とその一瞬だけ、静まり返ったような気がした。
なんでそんな事をわざわざこの席で言うんだ。と
そのときは怒りとやるせなさで悲しい気持ちにもなったが。
彼女の歯に衣着せぬ言葉の通り、
世の中は確かに、決して優しくもなければ、甘くもないのだろう。
あのとき、あらためて
そう思ったのだった。
小学校時代の彼女は、笑顔で明るく
荒んだ一面など、周囲に微塵も見せたことはなかった
大人になり、その ふて腐れた様子とも、ナーバスとも取れるような彼女の言動を察し
時の流れというものを
変わってゆく人の姿と言うものを
嫌でも思い知らされたのだった。
……………………
…………………
………………
……………
…………
……
…
目的も目標も、生きる気力もなく
宛てもないまま、ふらふらと。
自分は何者なのか?
どうしたいのか?もわからずに
ただひたすらに
亡霊のように さ迷い続けた、あの日々を。
当時の うろ覚えな記憶と共に
ほんの少しづつ。
現在の、俯瞰した自分の目線と、経験と、言葉を以て 書き綴らせて頂いた次第です。
今回はその序章。ということで。
此処まで目を通して読んで下さった方がおりましたら、感謝を申し上げたいと思います
自分の拙い文章をここまで拝読して下さり、ありがとうございました。
- 紫苑 -