ナポレオンの親友 ドゼ将軍の素顔
ナポレオンの「親友」、ドゼ将軍とは、どんな人だったのでしょう。同時代のアーティストの証言(作品)をご紹介致します。
ゲラン
Jean Urbain Guérin
(1760-1836)
ストラスブール生まれの画家ゲランは、クレベールの幼馴染でした。ライン方面軍将校の肖像画としては、クレベールはもちろん、サン=シル、レイニエのものもあります。
国民衛兵となったゲランは裏切りを疑われ、ドゼの下に匿われていたこともありました。(→ wiki)
97年11月から翌年3月17日までの間に描かれたものと思われます。ドゼはすでにボナパルトの下にくだり、パリを根城に、エジプト遠征の準備をしていました。
時期的にはココです。↓
デュテルトル
André Dutertre
(1753.6.9 - 1842.4)
デュテルトルは、エジプト遠征に同行した画家です。彼は、遠征に参加したした全将校のスケッチを描こうと決意していました。
下の絵はもちろん、実際のドゼを見ながらスケッチしたものです。
ドゼ師団の遠征は過酷でした。ドゼは伝染性の眼病(オフサルミア、エジプト眼炎トラコーマ)にやられ、それになんだか、お腹の具合も悪そうな……。
けれど、この絵は素晴らしい絵です。wiki から貰ってきた上の画像ではわかりにくいですが、表情が非常に高貴です。
ルーブル美術館のサイトできれいな画像がダウンロードできますので、是非、ご覧になって下さい。
こちらにデュテルトルのエピソードがございます。若干盛ってます。
ピッジ
Angelo Pizzi
(1775 - 1819)
ピッジは、リュシアン・ボナパルトの命令で、ドゼのデスマスクを取った彫刻家です。デスマスク自体は紛失しているそうです。
シナル
Chinard, Joseph
(1756.2.12 - 1813.6.20)
下の像は、革命中に殺害された将軍 (ダンピエール、マルソー、オッシュ、ジュベールなど) を記念して 1800 年に発注され、1803(1804?) 年に完成した彫刻です。
シナルは、ピッジがとったドゼのデスマスク(前述)を取り寄せて参考にしました。
これに対し、上エジプトでドゼ師団に同行した画家のドノンは、この像は死んだ顔しかモデルにしていない、何度も勝利の栄冠を戴いた英雄を思い出すのにふさわしくない、と非難しました。
アッピア―ニ
Andrea Appiani
(1754.5.31 - 1817.11.8)
アッピアーニもまた、デスマスクを参照しています。が、彼の場合は、1797年に、ボナパルトを訪ねてイタリアへ来たドゼと会っています。アッピアーニは、生きたドゼを知っていました。
右手奥ににいるのは、ドゼがエジプトから連れて来た、マムルークの少年イスマイルとダルフール(スーダン)の少年バキルです。
アッピアーニには、ドゼの頭部横顔のスケッチもあります。デスマスクを参考に描いたと思われますが、すごく美しいです。メトロポリタン美術館でダウンロードできます。
メトロポリタン美術館
付:ジロデ
Anne-Louis Girodet de Roussy-Trioson
(1767.1.29 - 1824.11.9)
生きているドゼにも死んだドゼにも面識はありませんでしたが、同時代人ジロデによる1801年の作品です。
僭越ながら。
付:グロ
Antoine-Jean Gros
(1771 -1835)
ジャン・グロも、ドゼのことは直接的には知らなかったと思います。この絵は、ドゼの没後((マレンゴの戦いの後)10年経った、1810年に描かれています。
右手奥にドゼがいるのがおわかりでしょうか? その右は、クレベール? アレクサンドリアで負傷したクレベールは、いわゆる「ピラミッドの戦い」には参戦していないので、違うかもしれません。
1793年8月20日、ローターブールで、ドゼの両頬を銃弾が貫通しました。25歳の時です。
大隊長 général chef de bataillon であったドゼは戦場に留まり、声が出せなかったので、一晩中、身振り手振りで指揮を執り続けました。
明け方、駐屯地に戻った彼を、兵士たちの大きな歓声が出迎えたということです。
彼の両頬には傷が残りましたが、画家たちは全員、この傷を無視していますね。ピッジはどうかな、と思えるのですが、もみあげの一部かもしれません。
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