せりもも
ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征に関するエッセイです。ドゼ将軍やダヴー准将、また、名もない将校らの証言を丹念に集めました。 小説を書く為に集めた資料のお焚き上げとなっております。ブログに掲載した記事をよりマイルドにリライトしております
マリー・アントワネットの娘がどうなったか、ご存知ですか? ナポレオンの好敵手、後に友人となったカール大公の、生涯に亙る恋愛を小説にしました。
俺の名前は、五右衛門3世。かの有名な大泥棒・石川五右衛門の、弟の子孫だ。3世を襲名するからには、当然、義賊である。 謎解き連作短篇集です。
副官ではないのですが、そしてこれはセクハラでいいのかわかりませんが、部下に対する何らかのハラスメントであることは明らかなので、ご紹介しておきます。 フーレ中尉Jean-Noel Fourès 新婚の中尉 新婚のフーレ中尉(彼は騎兵だったようです)は、妻と別れがたく、新妻はこっそりと猟騎兵の格好をして、エジプトについてきました。 アレクサンドリアからカイロからの過酷な行軍に耐えたフーレ夫妻。亡くなった兵士も多い中、彼らは誠に頑健というか、幸運でした。 → 砂漠の行軍
ミュイロンは、エジプト遠征には参加していません。彼は、アルコレで、ナポレオンを庇って亡くなりました。 ミュイロンJean-Baptiste Muiron 1774.1.10 - 1796.11.15 出会い パリの徴税人の家に生まれます。トゥーロン攻防戦に砲兵大尉として参加し、そこでボナパルトと出会いました。 彼は、ボナパルトがバラスの副官を務めたヴァンデミエールの蜂起弾圧にも、砲兵将校として参加しています。例の、街中でブドウ弾をぶっ放し、王党派市民を殺戮した鎮圧です
ナポレオンの副官への無茶ぶりも、③まで来ました。 スルコウスキ―Józef Sułkowski 1773 - 1798 ポーランド貴族の息子です。スルコウスキ―家は、Sulima という紋章を持つことを許された、由緒ある家柄でした。 イタリアでの活躍 92年のポーランド・ロシア戦で活躍しますが、再びポーランドは分割されてしまいます(第二次ポーランド分割)。スルコウスキ―はフランスへ渡り、革命政府の元で戦います。 96年、ボナパルトのイタリア遠征で勇敢な働きを見せ、ア
行ってきちゃいました、リドリー・スコット監督『ナポレオン』 2時間半の間、そこしか見てない。 猫に小判。 (画像 猫:くまみね氏 受話器:PICaboo!)
副官を題材に、ボナパルトのパワハラ上官ぶりを示す例を続けます。 ジュリアンThomas Prosper Jullien 1773.12.21 - 1798 ボナパルトとは、トゥーロン攻防戦の時に知り合いました。イタリア遠征の時に、参謀に取り立てられています。 ジュリアンはボナパルトに気に入られていました。 ボナパルトのブラックぶりは、むしろ海軍提督ブリュイに対して発動されたといっていいでしょう。ジュリアンはそれに巻き込まれたというか……。 アレクサンドリア上陸
ここでは若き日のナポレオン(本来ならまだボナパルトと呼ぶべきですが)がどのような無茶ぶりを、特に副官達に強いたか、エジプト遠征を題材に追っていきます。 クロワジエFrançois Croizier 1773.10.27 - 1799.6.4 最初に挙げる犠牲者は、この方。ボナパルトのイタリア遠征で頭角を現し、ボナパルトの副官として、エジプトにやってきました。 ダマンフールにて エジプトに上陸し、アレクサンドリアを陥落させ、さらにカイロへ向かっていた頃。ピラミッドの戦
エジプトへの憧れ プロイセンが早々に戦線を離脱し、オーストリアとドイツ諸邦を打ち負かした今(1797年)、フランスの当座の敵は、海の向こうのイギリスです。 総裁政府は、イタリアの勝者ボナパルトに、ブリテン島遠征を期待しました。 しかし、イギリス海軍に対し、フランス海軍は勝ち目がない。だったらエジプトへ向かい、そこからイギリスを牽制した方がずっといい。 ボナパルトはそう考えました。 エジプトは、彼が制覇したイタリアの対岸です。そんなことからも、エジプトに対し、親しみを
二人の共通点 ドゼとボナパルト。 共通点の多い二人です。 ・貧しい地方貴族の息子(長男でない) ・王立士官学校の地方校で学ぶ(ボナパルトはブーリエンヌ、ドゼはエフィア) ・ほぼ隣接した地域で、王の将校として軍務についた ・貴族でありながら革命軍として国に残った 実は、ボナパルトとの会見前、ドゼは、イタリア軍はライン・モーゼル軍の資産(兵士や馬など)を、軒並み奪うつもりではないかと危惧していました。また彼は、イタリア軍は大層裕福なようだが、その資金はいったいどこからくる
ドゼの旅心 1792年、フランス革命政府の宣戦布告から始まった革命戦争は、97年春、一応の終結をみました。ボナパルト将軍率いるイタリア軍の活躍によって。 → フランス革命戦争(ブログ) 革命戦争初期からずっとドイツ方面で戦い続けてきたドゼは、この泥沼の戦いを終結に導いた若き将軍(ボナパルトは彼より1歳年下でした)に、是非、会ってみたいと思いました。 ドゼは、知らない土地を歩き、人と会うことが大好きです。実は彼は、この春の最後の戦いで太股に被弾し療養していましたが、なん
ナポレオンの「親友」、ドゼ将軍とは、どんな人だったのでしょう。同時代のアーティストの証言(作品)をご紹介致します。 ゲランJean Urbain Guérin (1760-1836) ストラスブール生まれの画家ゲランは、クレベールの幼馴染でした。ライン方面軍将校の肖像画としては、クレベールはもちろん、サン=シル、レイニエのものもあります。 国民衛兵となったゲランは裏切りを疑われ、ドゼの下に匿われていたこともありました。(→ wiki) 97年11月から翌年3月17日ま
1797年夏、ライン河畔から一人の将軍 général がイタリアへ、ボナパルトに会いに来ます。 ボナパルトのイタリア軍はロンバルディアを制し、6年間続いた革命戦争に一応の終止符を打ったところでした。 革命戦争についてはこちらに ライン・モーゼル軍から来た将軍の表向きの任務は、総司令官モローの使いでした。けれど彼の狙いは別のところにありました。旅が好きで知らない人に会うことを好むこの将軍は、是が非でもイタリア戦の戦場跡を見学し、長かった戦争を勝利に導いた「常勝将軍」に会
ボナパルトのエジプト・シリア遠征に関する小説を書きました。既に完結し、セルフ校閲及び大規模改稿も終わりましたので、宣伝に参りました。 「汝、救える者を救え『逃げろーーーっ!』」 日本語タイトルは、ペンギンちゃんのご本に入りきらなかったので、フランス語で入れてみました。 "Sauve qui peut!" というのは、船が沈みそうになった時に船長が部下たちに言う言葉で、逃げられる奴は自分の裁量で逃げろ、という意味です。直訳すると、(自分を)救える奴は救え、ぐらいでしょうか
「でも、五右衛門。それ、いいかもしれない」 あばら家に降臨した弥勒菩薩と生意気なクソガキが帰ると、独歩がひょいと顔を出した。 今まで、どこかに隠れていたものと見える。 彼は、俺の前に置かれた役者絵の束を見つめていた。 「絵姿が出回れば、愛之助も、隠れていられなくなるはずだから」 川原で草取りをしたうち、愛之助だけが、所在が分からないのだ。 そして独歩は、お藤を殺したのは、愛之助だという。 「愛之助をあぶりだすために。ね、一肌脱いでおくれよ、五右衛門」
調べが行き詰まっているという噂は、俺の耳にも入ってきた。 そもそも、俺は(独歩もだが)、下手人の疑いを掛けられた身だ。 人格が高潔なので、疑いは一瞬で晴れたのだが。 「入会地の草刈りをした人のところに、調べが入ったんだ。でも、犯人はいなかった」 俺の家に、遊びに来た独歩が言った。 どこからか聞き及んできたらしい。 「へえ! 全員の所を訪ねたわけかい?」 寝転がったまま、俺は尋ねた。 「岡っ引きってのは、ヒマだな」 「そうだね。寺にまで来るんだもんね。……ただ、
「これ、独歩。独歩や。親分さんがお呼びです」 如信尼に呼ばれ、川端独歩が現れた。 ちなみに「川端」というのは、彼を保護した町人がつけた姓だ。名前も同じ人物がつけた。 川のそばを独りで歩いていたから。 単純明快だ。 「……」 本堂に現れた独歩は、素直に、如信尼の前に坐した。 憧れの籠った眼差しで、如信尼を見つめ、同じ目のまま、本尊を拝んだ。 つられて自分も本尊を見上げようとし、長治は慌てて目をそらした。 頭上には、やはりどうにも禍々しい風が吹いてい
「恐らく、首を切られてから、川に投げ込まれたのだろう」 もったいぶって、天寿庵が結論した。 「川の中で、首を切り裂かれたのではない」 それはまあ、そうだろうと、長治は思った。川の中で相手の首を切りつけるのは、難しい。 「では、致命傷は、首の傷ですね?」 「まあ、そうともいえる」 「水に落ちた時には絶命していた、と。お藤という女は、死んでから、川に捨てられたわけですね?」 「どうかな」 「どうかな、とは?」 「はっきりとは言えん」 「は?」 「おぬしが腑分けをさせてくれ