1941年春に発足した東京市大久保国民学校1年生の戦時下の足跡を成績表と身体測定に見るー疎開で食糧事情激悪か
大日本帝国は日中戦争中の1941年4月から、それまでの尋常小学校・尋常高等小学校をそれぞれ国民学校初等科、国民学校高等科に改めます。その国民学校に最初に入学した少年の成績表・身体測定結果を1945(昭和20)年分までまとめて入手しましたので、そこから当時の子どもの姿を追ってみました。
1943年当時の身長118.4センチ、体重19キロは、1939(昭和14)年の全国平均に比べて身長は0.9センチ低いだけですが、体重は平均に比べ3.5キロ少なく、BMIでみると内田君は13.55、1933年の全国平均15.81に比べ、少しやせ型だったようです。1941年当時からこの傾向なので、やせ型のまま推移し、特に病気とかしていない、普通の少年だったようです。成績はまずまずだった様子です。
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1944(昭和19)年6月、米軍がサイパン島に上陸すると、サイパンが陥落した場合に首都圏が爆撃対象になることから、学童疎開の計画が立てられます。そして同年7月7日、サイパン陥落。学童の縁故を頼った単独疎開は既に始まっていましたが、8月4日から、学童集団疎開が始まり、長野県は約37000人と、全国で最多の受け入れをします。そして内田君は、約9200人が疎開した山梨県に移ることになりました。
上写真の通信表では見切れていますが、2学期の登校日数は転校してから22日しかありません。何らかの事情で疎開が11月末になったか、8月に疎開したものの、学校の受け入れ準備が整うまで寺などで学習したか。何しろ急なことですから、送り出す方も受け入れる側も大変だった様子が、この日数のずれからうかがえます。また、環境の変化からか、それまで年に1,2日しか休んだことのなかった内田君が、3学期に5日も休んでいました。
こちらは何月の測定かは不明ですが、身長121センチ、体重20.6キロ。身長は前の年度に比べて2.6センチ伸びましたが、体重の伸びは1.6キロでした。1939年度の全国平均だと、この時期は身長が4.7センチ、体重は2.1キロ増えています。内田君も身長は疎開前の1942年度から1943年度には5.7センチ伸びていますので、身長の伸びが早く鈍化しているのが分かります。こうした傾向は内田君だけでなく、全国的に子どもの体格は成長が止まったようになりました。栄養不足や慣れない集団生活など、疎開が子どもに大きな負担をかけたのは間違いありません。
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次は、通信表に起きた変化です。1944年度はきちんとした通信表が、1945年度は付箋程度のものになっています。紙の不足がついにここまで来たかという感じです。
しかも、これは1学期分のみのものです。つまり、1945年9月2日の降伏調印までのものということになります。幸い、その後刷りなおして発行されたものが一緒に入手できましたので、並べて比較できました。
はっきりした違いは武道が無くなっただけですが、この世代は、いわゆる「墨塗り教科書」を使った世代。授業内容は様変わりしたことでしょう。いつごろ親元に帰還できたかは分かりませんが、モノがない時代。元の学校に戻る時に、せっかく山梨で作った付箋型通信表を生かしたことは充分考えられます。
戦争の決定の圏外にいた子どもたちが、こうして振り回されながら、先に紹介した慰問文などを作ってひたすら勝利を教え込まれて…。疎開学童の件は、また紹介させていただきます。