戦時下、空襲に備えて各家庭に求められた灯火管制。アイデア商品もたくさんあらわれました。(防空)
大日本帝国の戦時下における空襲対策で、民間に最も求められたのが、夜間、屋外に光を漏らさない「灯火管制」でした。窓を遮光用の紙で覆う、という方法もありましたが、これでは急な備えにも普段の生活にも向きません。とはいえ、自作するには火事など出さない工夫も必要。そこで、電灯につけるさまざまな市販の遮光具が開発されました。
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まず、布製遮光具。黒い布で遮光性は問題なし。電球のかさの上から被せ、熱の伝わらないぎりぎりのところまでひもを絞って取り付けたのでしょう。
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ただ、よく入手できたのは紙製の遮光具で、電球に直接取り付けても使えるのが利点だったでしょう。残念なのは、ずっとつけておかなければならず、常に灯火管制生活になるところでしょうか。
こうした組み立て品では、運搬が面倒だったりする面もあったのでしょう。自分で組み上げるタイプの製品も登場します。
同じ紙製の遮光具の中には、ふだんはたたんでおいて、いざ空襲警戒のときには蛇腹状の部分を伸ばすという、アイデア商品も登場しています。
いちいち遮光するのは面倒だ、という声に応じ、東京芝浦電気株式会社では「マツダ灯火管制用電球」を作っていました。
さまざまな遮光の手本は、内務省推薦の「防空絵とき」などの書籍のほか、長野県では防空演習のチラシに事例を載せるなどして徹底しています。
ただ、夜間にいくら灯火管制をしたところで、空襲の被害は免れませんでした。そして昼間も艦載機やB29が飛び回るようになり、どうでもよくなるのですが。まあ、日中戦争初期程度の状況であれば十分間に合いましたが、兵器の開発競争に追いつけなかったのと同様、爆撃機の性能向上に合わせて対策を変えるということをしなかった結果、惨劇をより拡大する結果となっていくのですが。
むろん、無差別年爆撃は非戦闘員の被害を考えると、その非人道性は糾弾すべきもの。大日本帝国も重慶への2年間にわたる戦略爆撃を行ったことを忘れてはいけないでしょう。
それにしても、原爆投下などを指揮した米国人に勲章が贈られているというのは、いくら憎悪を残さずと言っても、納得できないですね。