子どもや学生から作品を募集し盛り上げるのは戦時下も変わりませんでしたが、より政治的意味合いが強かったようです
収蔵品には、戦時下の子どもや学生が描いた作品があり、自由な作品のほか、戦争を題材にしたものもあります。学校で子どもに教えること、その作品作りを通して家庭へも意識を波及させること、国の方針を伝えていくこと…現在でもよくあることです。それが戦時下ではどうだったか。製作時期など不明なものもありますが、推理しつつ、その絵画が描かれた時代と背景を推測していきます。
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上写真は「満州事変記念日」として「築け東亜」「銃後の力」などの標語が入っています。裏に「優上」とあり、各地で貼られたのか、いくつも四隅に画びょうの跡があります。絵やレタリングの雰囲気は、尋常小学校の児童の作品のように思えます。
「銃後」と「今ぞ国民戦」ともあり、戦時下であるようです。では、いつのものか。満州事変記念日とあるので、少なくと満州事変の発火点となった日本軍の謀略「柳条湖事件」のあった1931(昭和6)年9月18日の翌年、1932年以降となります。
続いて描かれている飛行機に着目しました。複葉機ではなく、低翼単葉で固定脚。海軍機の九六式艦上戦闘機か、陸軍機の九七式戦闘機がこのタイプです。九六式艦戦が戦線に登場するのは1937(昭和12)年半ば以降、九七式戦闘機は1939(昭和14)年からで、どちらにしても、日中戦争下であったことは間違いありません。
「築け東亜」という言葉がいつごろ登場したか。「暴支膺懲」で始まった日中戦争が簡単に終わりそうになく、大作戦も一段落した1939(昭和14)年ごろからです。とすると、同年から1941(昭和16)年の9月18日ごろとみてよいのではないでしょうか。満州移民も既に国策となっていて、1938(昭和13)年からは満蒙開拓青少年義勇軍の送出が始まっているので、義勇軍への関心を高める狙いも込めて学校で書かせたポスターと言えそうです。
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上写真のポスターは、裏面に学年とクラス、名前が入っており、3年生であること、名前を漢字でしっかり書いてあることから、中等学校3年生の作品とみられます。満州国を背景に、手前にコウリャンを描き、中央に位置するのは満州国の首都、新京特別市にあった「新京忠霊塔」です。そして「満州建設」「躍進満州」とあります。
年代の手がかりになるのは忠霊塔です。満州事変後の1934(昭和9)年11月に完成し、満州事変の日本軍戦死者の遺灰が納められました。満州国は既に満州事変中に建国しています。「満州建設」という言葉、忠霊塔を据えていること、コウリャンが農業をイメージさせることから、満州移民が国策となる1936(昭和11)年以降の作品と推定しました。また、ちょうどこの世代も満蒙開拓青少年義勇軍に参加しているので、義勇軍送出が始まった1938年ごろ、意識を高めるために描かせたとも言えそうですが、戦時色が薄いので、日中戦争開戦前、先のポスターより少し早い時期の、満州移民PRを狙った作品とみてよいでしょう。
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最後に示すこちらのポスター画は、太平洋戦争中の1942(昭和17)年4月30日に行われた総選挙の啓発ポスターで、長野県赤穂町(現・駒ケ根市)の赤穂農商学校(現・赤穂高校)商業科3年生が描いたものです。長野県は1942年4月11日、国民学校6年以上、青年学校、それに中等学校に対し「大東亜築く力だこの一票」などの選挙標語を入れたポスターの作成を指示します。18日までの一週間の間に作成させ、適当な場所へ広く掲げるようにとしました。無茶ぶりも極まれり。それでも頑張って完成させたんだよね。
「翼賛選挙貫徹運動ポスター」とあるように、大政翼賛会の推薦候補でなければ当選が困難だった選挙で、長野県では全国でも珍しく、当選者全員が推薦候補でした。警察の選挙干渉も甚だしく、非推薦候補陣営は幹部が次々と逮捕されるなど、ひどい状態でした。既に政党は解散しており、ある意味信任投票のような選挙です。ポスターを描かせて各地に張り出し、宣伝に努めたなごりとして、ポスター裏面には四隅に上下の作品とつなげたような紙テープの端が残っています。
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こうしたわずかなポスターで、何かの結論を導くというのは早計かもしれません。しかし、国策が教育現場にしっかり浸透していたことは明らかです。当然、関連する知識も与えられたでしょう。たかがポスター、されどポスターです。戦時下の上意下達の雰囲気、少しは感じていただけるでしょう。
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