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<数息観瞑想日誌>2024年度版(1)

<数息観瞑想日誌>2024年度版(1)

2024 年7月度分

自宅編 #1

2024-7-24(水)晴れのち曇り、猛暑日、昼過ぎに激しい雷雨。

数息観瞑想 計3セット、断続的に約90分。般若心経6回。

数息観瞑想をやりだしてから、約二ヶ月たつ。ほぼ毎日、200まで数えることを1セットとして、3セット、継続している。三日坊主になるのではないか、と内心思っていたが、自分に無理強いすることなく続いている。

ところで、数息観瞑想について、少し記述しておこう。由来は仏教の<数息観>にあるらしい。座禅や瞑想の実践的な方法で、出入りの息を数え続ける。<ひー>で吸い、<とつ>で吐く、次に<ふー>で吸い、<たつ>で吐く。以下これを、十まで数える。終わったら、またはじめに戻る。

自分は、これをアレンジして、<いー・ち>から<ひゃー・く>まで数え続ける。自室では、<ひゃー・く>になったら、また<いー・ち>に戻り、<ひゃー・く>まで数える。瞑想の始めと終わりには般若心経を小さな声で読む。これでワンセット、約30分位だ。ちなみに、般若心経は、以前、演劇をやっていた時に暗記した。

体勢は、ベッドに腰かけてやることが多い。股関節が痛くて、<半跏趺坐>はもちろんのこと、<胡坐>もかけないのだ。いちおう背筋を伸ばして始めるが、そのうち、弛緩してきて、少し背中が曲がる。

掌は上に向けて膝の上に置く。掌は次第にず~んと重くなる。陽の光を受け止めている感じ、開放的な身体感だ。一方、掌を下に向けた場合は、掌の感覚は喪失して、かしこまっている感じ、上からの指示を待っている感じ、なにかを考えようとしている感じになる。何回が試してみて、掌は上に向けることに決めた

目は閉じる。なので、しばしば、数を数えることを忘れて、ウトウトしていることがある。それもいいと思っている。いやむしろ、その、寝ているのでもなく、起きているのでもない、わけのわからない時間が<快適>でもあるのだ。

<数息観瞑想>などと難い言い回しをしているが、実態的には<リラクゼイション>なのだ。体のリラックスから入って、心のリラックスに行きつけばいい。求めているのは<心の平安>なのだ。

<数息観瞑想>についての記述は、これからも、書く機会があるだろう、今はこれくらいにして、先に進もう。

今日の<数息>で、印象に残ったこと。呼吸は、鼻から吸って、口から吐く。いわゆる<腹式呼吸法>である。だが、その時々の感じで、呼吸が浅いときもあり、深いときもある。浅い呼吸とは、ほとんど努力しない、自然に任せた呼吸だ。一方、深い呼吸とは、目いっぱい吸い込み、目いっぱい吐く、多少の努力を伴う呼吸だ。傾向としては、<深い呼吸>からはいり、徐々に<浅い呼吸>になる。どちらでも、あるいは、どの段階の<呼吸>でも、<よし>としている。

自宅編 #2

2024-7-24(木)曇り時々晴れ、猛暑日、35度越え、暑い。

小畔川散歩、9000歩。往路は、右岸、東上線小畔川橋梁の下から、土手道に上がり、川下へ向かって歩く。金塀橋、八幡橋を横切り、精進橋まで行く。復路は、精進橋を渡って、左岸を東上線橋梁まで遡上する。

土手道は舗装されていて、軽自動車が一台通れるが、車両通行禁止である。今の時期は、人間の背丈ほどに伸びたイネ科の雑草が両脇に繁茂していて、土手道に覆いかぶさっているところもある。

早朝、午前五時頃から歩きはじめる。それでも、散歩している人とすれ違うことがかなりある。今朝は、四、五人、自分より年上であろう爺さんや婆さんから、挨拶された。いちおう、挨拶されたら、挨拶し返すようにしているが、会釈だけの時もある。

土手道は、ほぼ一本道で、下を向いて歩く。生き物を踏まないためだ。ときとしてミミズが目に入る。鮮やかな緑色の芋虫を見た時などは、ちょっとぎょっとする。ヘビ、ガ、毛虫、芋虫などは嫌いなのだ。

気まぐれで、数を数えながら歩くこともある。般若心経を黙読しながら歩くこともある。気まぐれだから、まわりの景色に目がいって、中断しても、頓着しない。今朝は、空の景色が、とりわけ美しかった。

どう美しいのか、言葉では言い表せない。いまではもう、言い表す努力をしようとも思わない。この空の美しさを、記述できる文才があれば、物書きになれるだろう。いつも携帯しているデジカメを持ってこなかったことをすこし悔いた。

そうだ、つい先日、般若心経で言うところの<空>は、すなわち頭上に広がる<そら>のことだと思った。空の景色を見ていると、まさに実体はないのだけれど、実体があるようにも見える。

空の景色、とりわけ雲の表情に魅かれるのは、自分が般若心経に魅かれ、<空>に魅かれることと無縁ではあるまい。

自宅編 #3

2024-7-25(金)曇り時々晴れ、猛暑日、35度越え、暑い。シャッター、カーテンを閉め切って、一歩も外へ出ず。

午前四時半に起きて、五時から五時半まで、ベッドに腰かけて数息観瞑想、1セット目、数息200回、般若心経2回。

頻繁に居眠りしたものの、はじめのほうで、脳裏をよぎったことがある。<ベケット朗読>の中断についてだ。中断しているのは、<朗読>することへの懐疑からではなく、単純に、集中力がなくなっていて、大儀なのだ。この身体的な衰えは、灯台撮影に終止符を打ったことの理由でもある。

ちなみに、<朗読>を始めたのは、ほとんど人と話す機会がないので、発語や嚥下などの器官の老化防止という実利的な目的もあった。いまのところ<朗読>を再開できそうにもないので、そのかわりにというか、<般若心経>を利用してみようと思う。

頭の中での黙読、無声音での音読、小さな有声音での音読、この三種類の読み方を、場所や時間、その時の気分で使い分けている。もっとも、<黙読>では、口や喉の器官を使わないから、むしろ、<脳>の老化防止になるのではないかと思っている。

午前八時より、ベッドに腰かけ数息観瞑想、2セット目。

100まで数えて、あまりにも眠いので、ベッドでの横臥状態に変える。だが、30ほど数えて、 ウトウトしだし、以後何回か、数えなおしたが、そのうち寝てしまった。起きたら九時半になっていた。やや頭がすっきりしていた。

ベッドに腰かけて数息観瞑想、3セット目は、午後の三時から三時半まで。数息200回、般若心経2回。

比較的集中できたものの、80ほど数えたあたりから<抵抗>が出てきた。身体が、じっとしていることにストレスを感じているらしい。<口の脇がくすぐったい><頭がかゆい><おならが出たくなる><足先が寒い>などなど。放っておくのが一番だが、今回は、少し腰を浮かして<おならをしてしまった>。

命の危険がある場合はいざ知らず、ちょとしたかゆみや痛みは、放っておけば、そのうち消えてしまう。これは経験済みだが、<おなら>はどうだろう。惑わされずに、放っておくことができるだろうか?次の時には、挑戦してみよう。

自宅編 #4

2024-7-26(土)曇り時々晴れ、夕方に小雨、猛暑日。

午前五時、小畔川散歩、Bコース、 9000歩。吉田橋から右岸の土手道に入り、遡上。高橋、御伊勢橋を横切り、関越道までの往復。途中、御伊勢塚公園に寄り、<修景池>の休憩所で般若心経を読む。

なお、復路では川原に下りて、軽く体操、般若心経を読む。この場所は、川沿いにあるちょっとした広場で、旧霞北小学校の対岸にある。昔から好きな場所である。

今朝は、曇り空だったが、早朝から蒸し暑い。七分ジャージーでは蚊にくわれるし、普通のジャージーでは蒸れて不快だ。なので、四国遍路のために買ったユニクロのジャージーパンツをはいてみた。素材が<エアリズム>だけあって、不快さが激減した。ちなみに、上は<エアリズム>の長袖Tシャツである。

土手道の両脇に、腰高の雑草が繁茂している。細長い葉がトウモロコシに似ている。帰宅後に、ネットや本などで調べたが、名前が特定できない。少しいらいらする。<ものにはみな名前がある>のだ。

数息観瞑想、11:00-11:30、1セット目、数息200回、般若心経2回。

数を数えることに集中できた。間違えたのは一回だけ。呼吸を<鼻から吸って、鼻から吐く>ことに統一したら、口や喉などが動かくなった。この呼吸法は、ヨガの呼吸法でもあり、寝ている時には、誰もがしている、いわゆる鼻呼吸だ。さらに、この呼吸法により、顎の筋肉がやや弛緩してきて、口腔の中で、下顎が少し下がり、上下の歯の間に隙間ができた。口回りの筋肉がリラックスできたわけで、良い発見だった。

数息観瞑想、14:00-14:30、2セット目、数息200回、般若心経2回。

後半、150を数えたあたりで、ウトウトしだし、何度も数えなおす。<おなら>はやり過ごしたが、<咳>は思わず出てしまった。あと、口の中に<つば>がたまり、何回か飲み込んだ。

数息観瞑想、17:00-17:30、3セット目、数息200回、般若心経2回。

じっとしていることの<抵抗>として<おなら>三回、尿意、<つば>が口の中にたまる。だが、すべてやり過ごして、30分ほど、ほぼ微動だにしなかった。

たまには、目の前の暗い空間を<やぶにらみ>することもある。はじめのうちは、もやもやした<斑>が見えた。が、そのうち、ほとんど判別できない男の顔が、小さな額縁の中に、次々に現れた。

最後のほうでは、日本髪の格子柄の着物を着た中年女性の横顔がでてきた。女性の子供なのだろうか、互いに頬を寄せ合っている姿がイメージされた。

これらイメージは、暗くて、さほど鮮明ではない。だが、頭の中の表象ではなく、言ってみれば、映画やスライドショーを見ているような感じに近い。これら、眼前のイメージは、若いときに学習した<自律訓練法>の中に出てくる<除反応>の一種なのではないかと思っている。

<除反応>とは<無意識の中に抑圧されていた過去の不安,緊張,外傷体験の状況が,あるきっかけのもとで再現され,その時の情動が激しい形で表現され解放されること>と定義されている。

自宅編 #5

2024-7-28(日)曇りのち晴れ、38度越えの猛暑日。

4:30-5:00、数息1セット目。数息200回、般若心経2回。

150を数えたあたりでウトウトしだす。数を忘れて、数えなおす。<抵抗>は<つばの飲み込み>だけ。イメージが現れる。コンクリートの塀。白黒の落書き、装飾的できれいだ。

数息観瞑想の一連の流れは、これまでにも書いてきたが、前後の深呼吸のことも付け加えておこう。深呼吸は鼻から吸って口から吐く。瞑想体勢に入り、そのままの姿勢で、五回ほど深呼吸をしてから、般若心経を読み、数を数えだす。

終わりは、この逆の順序で、通常の状態に戻る。終わりの深呼吸は、瞑想体勢のまま、目を開け、顔を上にあげながら大きく鼻から吸いこみ、顔を下げながら口から吐き切る。これを五回繰り返す。

さらに、上に向けてある掌の指を握ったり開いたり、指を折って数を数えたりもする。これは、瞑想からの覚醒を、脳にしっかり知らせるためだ。

瞑想もリラクゼイションも、自己催眠の一種で、催眠が終わったことを脳に刺激を与えることで、知らせる必要がある。でないと、通常の状態に戻ったにもかかわらず、催眠状態がその後も続く可能性があり、危険である。

催眠術師が、最後に、指を鳴らしたり、大きな声を出したりするのは、一応は理にかなっている。瞑想状態が終わったことを、身体的刺激で、必ず脳に伝えることにしている。

14:00-14:30、数息2セット目。数息200回、般若心経2回。

<つば>を二回飲みこむ。何度もウトウトして、数を間違え、数えなおす。終了後に、覚醒動作はせず、そのまま横臥して昼寝。瞑想から入眠に移行する場合は、覚醒動作は必要ない。これは当然のことだろう。

15:45-16:15、数息3セット目。数息200回、般若心経2回。

<つば>を一回飲み込む。何度もウトウトして、ガクッと体が揺れる。そのあと、姿勢を正し、また数を数え始める。電車の中で居眠りしている人間みたいだ。<こっくりこっくり>という状態だ。本式の<座禅>や<瞑想>では許されないことだろうが、自分は頓着しない。とにもかくにも、座って、呼吸に合わせて、200回、数えればいいのだ。

自宅編 #6

2024-7-29(月)猛暑日、39度、異常な暑さ。

5:30-6:00、数息1 セット目。数息200回、般若心経2回。

始まりの心経のあとに<つば>を飲み込んでから、数息に入る。今日もまた、150を数えたあたりでウトウトしだす。数を忘れて、二、三回数えなおす。傾向として、150を数えたありで、ウトウトすることが多い。

洞察、<息をする>とは<生きる>ことだ。息をしていることが生きていること、そのことだ。1分間に12回の呼吸、1時間で720回、1日で17280回、1年で6307200回。 およそ82年間生きるとして、5臆1660万回、<息>をしていることになる。そのうちの何回かが、今この瞬間の<数息>なのだ。

今朝は、珍しく、200数えたあとも、少し続けた。不動の姿勢で数を数えることが、<じれったい>ことも<退屈>なことも<苦痛>なこともなかった。これはわれながら、いい傾向だ。

<死の苦しみ>は人間がほかの生物を必要以上に殺してきたことの代償だ。突如して、この言葉が浮かんだ。

9:15分頃から、電車の中で、数息2セット目、数息200回、般若心経は黙読2回。

両脇に人が座っている、窮屈なうえに、乗客の話し声、車掌の案内、駅に停車する時の騒音、乗降客の喧騒、などなどで、数を数えることに集中することが難しい。

今日は、半年に一回の眼科受診で東京へ行く。コロナ感染の11波目で、患者が増えているらしいが、マスクをしている乗客は八割ほどだ。

13:30頃から、今度は帰宅の電車の中で、数息3セット目、数息200回、般若心経2回。

両脇に人が座っている。左隣は、中東系の体格のいい若者で、ヘッドフォンをしながら、スマホでゲームをしている。これは、何の匂いなのか?<お香>のきつい匂いがする。

それに電車の騒音、エアコンの音は聞こえるが、全然冷えない。停車し発車する度に、背中側の窓から、熱風が来る。それでも我慢して200数えた。これでは<苦行>になってしまう。自分の求めている<瞑想>ではないと思った。

今年一番の暑さ、それに一番暑い時間帯に電車に乗っている。ツイてない。

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