私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー

【著書紹介文(出版社Webより)】
密なる才能、器量の大きさ、繊細な心--。J・マキナニー、T・ウルフ、G・フィスケットジョン他、早すぎる死を悼む作家と編集者九人が、慈しむようにつづる作家カーヴァーの素顔。

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村上春樹編訳の、レイモンド・カーヴァーについてのメモワール。9篇のうちの最後のウィリアム・キトリッジによるものが良かったので、一部を転載しつつ、僕(誠心)が感じたことを最後に書きます。P228~232から、「チェーホフの短篇の引用の一部(※)」→「キトリッジの記述の一部(※)」を転載します。※僕(誠心)が勝手に途中を省略しています。

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 私は自らに向かってこう言った-なんと多くの人々が満足し、幸福に浸っていることだろう! そういう人々の勢力はなんと圧倒的に強いことだろう! 人生というものを見てみたまえ。強者たちは怠惰で傲慢だ。貧しき者たちは無知で野卑だ。恐ろしいほどの貧困がいたるところにある。人口過密、堕落、飲酒、偽善、虚偽-にもかかわらず、すべての家庭や往来には平和と静寂がある。私たちの街には五万の人間が住んでいるというのに、叫び声をあげようとするものひとりいない。

(中略)

しかし現実には木槌を持った男なんてどこにもいない。幸せなる男は心安らかに生きている。まるで風の中のポプラのように、日々の些細なことにも心をちらちらっと震わせるだけで、すべては事もなく過ぎていくのだ。

アントン・チェーホフ『すぐり』

 チェーホフは、小説というものは(それが優れたものであれば)我々の個人的な苦難から進んでメタファーを作っていこうとするものなのだということを理解していた。我々にとっていちばん役にたつ物語というのは、我々のもっとも高潔なありかたと、もっとも不実なありかたに同時に焦点を当てるもののことだ。ここにあるトラブルはあるいはあなた自身のトラブルであるかもしれないのだ、と小説は語る。この不公正はあなた自身のものだ。これらの栄光もまたあなた自身のものだ、と。
 レイはチェーホフの言うその小さな槌を持った男に耳を澄ませることに多くの時間を割いていたにちがいない。彼のもっとも深いシンパシーが、チェーホフの場合と同じように、特権を奪われてしまったものに、彼の父親と同じような鋸目立て係の職人たちに向かって注がれているのを見て取ることはたやすい。

(中略)

 レイの最良の作品は、自分がいかに狼狽しているときでも、なんとか他人に暖かくまっとうでありつづけようとする試みの必要性を示唆している。それらは有用性という点で傑出している。他人であることがいったいどういうことかということを我々に想像させてくれるのだ。それは我々が思いやりというものを身につけるための道である。それは偉大なことだ。そのような親愛の中で、我々は互いを慈しむことを学ぶのだ。想像するという行為を持続させることを通して、これほど政治的なことは他にはあるまい。

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こういうのを読んでとても共感すると同時にキトリッジに惚れ惚れしてしまう。また、これに限らずだが明らかに村上春樹的な文章になっている(笑)。
『レイはチェーホフの言うその小さな槌を持った男に耳を澄ませることに多くの時間を割いていたにちがいない。』や『レイの最良の作品は、自分がいかに狼狽しているときでも、なんとか他人に暖かくまっとうでありつづけようとする試みの必要性を示唆している。それらは有用性という点で傑出している。』など、特に勇気を与えてくれている。

何かとスピーディに答えを求められることが多い人生の中で、まっとうに聴き、まっとうに観ることができる人の「底力」を改めて感じた。

(僕は、星野道夫さんが「旅をする木」の中で、神話学者ジョセフ・キャンベルさんの話を引用するところがとても好きなのですけれども、キトリッジさんのチェーホフさんとカーヴァーさんのキリトリも神聖なものを感じます)

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