グレート・ギャツビー
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大晦日の夜より、1年ぶりに長篇小説を読み始め、まるで水を得た魚のようにすらすらと読み終えたのだが、僕(誠心)の過去のnote(2020年11月21日)によると、
https://note.com/seishinkoji/n/n9081e6b3e7d6
今回で『グレート・ギャツビー』を読むのは4回目らしい。
また、本作の刊行は1925年だけれど、書き始めはちょうど100年前の1924年。おぉ…。
さて4回目はどんなことを感じたか…ややネタバレになるけれど書いてみようと思います。
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まずは語り手ニック・キャラウェイによる冒頭、父からの忠告、ここはいつ読んでもすばらしい。そして後半に出てくる、ギャツビーの若い頃の日々の鍛錬についても誠にすばらしい。
今回は、ジェームズ・ギャッツが新生ジェイ・ギャツビーに変わるあたりの描写がとても印象に残った。それをニックが語るタイミングと、ギャツビーがニックにそのことを語るタイミングがとても良かった。その意味で『グレート・ギャツビー』のすばらしさは、語り手ニック・キャラウェイにあるのではないか、という俯瞰的な(あるいは醒めた)読み方をしたような気がする。
前のnoteでも書いたように、この小説のキーワードは「思慮」「分別」といったところにあると今回も感じた。あまりにもギャツビーはグレートすぎて眩んだ。ギャツビーの生き方は今回もしかと胸に受け止める。あらゆる意味で力をもらえる、勇気ももらえる。
しかし今回はどうも、デイジーとトムの夫妻が気になる。特にニックとトムが後半で再会するシーン。ここだけ文章を転載すると…。
僕には彼を許すこともできなかったし、好きになることもできなかったけれど、少なくともトムにとっては自分のなした行為は完全に正当化されているのだということがよくわかった。(第9章より)
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(思慮に欠けた人たちと上手に距離を置くには…)
ニックはギャツビーやそれを取り巻く人たちを描きながらも、自身の人生の出来事として語っている。その点で今回は「グレート・キャラウェイだなぁ」と感じた。
(ちなみに、映画『華麗なるギャツビー(1974年)』のニック・キャラウェイはサム・ウォーターストンが演じていますがめちゃくちゃいいです)
フィッツジェラルドさんの短篇をこのところ読んで、この『グレート・ギャツビー』を読むと、長篇小説にかける熱量や力量がすさまじいことが本当によくわかりました。春樹さんのそれらももちろんすばらしいわけです。
再読のおもしろさの一つには「自分自身の変化(進化もしくは退化)に気づく」があるようです。
本年もみなさま、よろしくお願いいたします。