大いなる眠り

【著書紹介文(出版社Webより)】
私立探偵フィリップ・マーロウ。三十三歳。独身。命令への不服従にはいささか実績のある男。ある午後、彼は資産家の将軍に呼び出された。将軍は娘が賭場で作った借金をネタに強請られているという。解決を約束したマーロウは、犯人らしき男が経営する古書店を調べ始めた。表看板とは別にいかがわしい商売が営まれているようだ。やがて男の住処を突き止めるが、周辺を探るうちに三発の銃声が……。シリーズ第一作の新訳版

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これから、レイモンド・チャンドラーによる「私立探偵フィリップ・マーロウ」シリーズ作品全7作を順に読んでいきます(本作含め一部は再読、一部は初読)。

「訳者あとがき」から、僕(誠心)が好きなところを3つ転載します。



 まずミステリーがあって、それにあわせて彼の文体ができたのではない。まず彼の文体が(潜在的に)あり、そこにミステリーがあてはめられたのだ。だから「推理する」という要素は、彼の小説にあっては比較的希薄であり、プロットは物語の中で、あくまで副次的な役割しか与えられていない。フィリップ・マーロウは状況を推理して行動するのではなく、まず状況に沿って身体を動かし、動かし終えたあとでいささかとってつけたように推理をする。だからその推理にあまり身が入らないし、多くの場合、整合性と明瞭性を欠くことになる。
 しかし繰り返すようだが、それこそがチャンドラーの小説世界なのだ。我々はまずフィリップ・マーロウの身の動きに目を引かれる。そして彼の動きを追っているうちに、その小説の律動に呑み込まれていって、やがて筋の整合性なんて(たぶん)とくにどうでもよくなってしまう。我々が必要としているのは、フィリップ・マーロウという人物の発揮する整合性なのだ。



 マーロウが警官の職を辞さなくてはならなかった原因としては、そのような汚れた「組織」に自分が取り込まれていくのが我慢ならなかったということがひとつあげられるに違いない。マーロウにはもちろん荒っぽいところもあるし、決してきれいごとだけで生きているわけではない。しかし組織をバックにした暴力や腐敗というものが、彼には我慢できない。彼はあくまで個人的な人間である。マーロウが警官に対して抜き差しがたい嫌悪感を抱いているのは、警官個人に対してというよりは、彼らの背後にある悪しき組織性に対してなのだ。
 しかしもちろん一匹狼にできることには限りがある。「警官にできなくて、おたくにできることが何かあるのか?」と市警失踪人課のグレゴリー警部に尋ねられて、マーロウは「何もない」と答えるしかない。それは実に正直な答えだ。個人が正面から勝負をして、組織に勝てるわけはない。しかしそれと同時に、マーロウは警官には決して手にできないものを手にしている。それは「自由」だ。個人であることの自由だ。それは大きな組織に属する人間にはまず持ち得ないものだ。彼はその自由を手に、勘を頼りに、個人としての矜恃を頼りに、状況の「柔らかな部分」をひるむことなく衝いていく。マーロウはスターンウッド将軍に言う、「本腰を入れて仕事をすることが許されるなら、彼ら(警察)が見落としをするようなことはそうそうないはずです。しかしもし彼らが見落としをするとすれば、それはもっと曖昧で、捉えどころのないものごとについてです」。



 そのような、ある意味では現実離れした物語を「寓話(fable)」と呼ぶことも可能だろう。都市の寓話だ。都市生活者のための寓話だ。しかしながら、それはただの寓話では終わらない。チャンドラーの生き生きとした文章と描写は、それを寓話という域を超えたものにしている。それはひとつの「神話(myth)」にまで昇華されている。寓話と神話との違いは何か? 寓話は形象の組み替えというレベルで完結してしまうが、神話は人の心の「元型」に結びついている。寓話は頭で理解するものだが、元型は心をすっぽりとあてはめるものである。そこには理解は必要とされない。それが大きな違いだ。元型は時代を超え、地域を超え、言語を超えて集合的に機能する資格を与えられる。

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