「死」の恐怖と不眠の話【漢方医放浪記】
もうすぐ自分は死ぬのだ、と彼は項垂れました。齢90を越える老人の痩せた手は僅かに震えながら、その眼差しは私を刺しました。
とにかく具合が悪そうだと救急車を呼んだ家族のことを、私は咎める気になれませんでした。
医学的には緊急性のカケラもありません。血液検査も画像検査も心電図も何もかも、異常らしい異常はありません。元々の心疾患の影響はあるものの、それが急激に悪化した様子はみられず、腎硬化症なのか慢性腎臓病らしくはありますが、だからといって何をすることもありません。循環器内科に濃厚な通院治療歴があって、それらは適切に管理されていたからです。
眠れないんです、と老人は言いました。
家族の話を聴きますと、たしかに不眠らしいというか、眠るのを恐れているように見えるといいます。話を促すと、家族は云いました。
「『俺は次に眠ったらそのまま死んで、もう二度と目が覚めないんだ。』って言うんです。」
妻と息子は憔悴していました。
彼と私は初めましてでしたから、普段の様子が分かりません。薬も色々と出されていますので、勝手に弄るのは憚られます。
私は外来主治医に電話をかけました。様子を伝えて意見を求めると、前から不安が強いんだよねぇと彼は応えます。年齢的にも心臓と腎臓的にも眠剤を出すわけにはいかなし…と呟く主治医に「漢方薬を処方してもよいか」と問うたところ、快諾されました。ええ、試す価値はありましょう。
診ますと、老人の脈は深く沈んでいます。元来は達者だったようで底力はあるものの、やや数・細脈で結滞しています。上焦が昂っている一方で、下焦は細く弱く消え入りそうな気配です。
なるほど、天寿が近いのでしょう。
彼の不安は的中しているのです。そしてこればかりは、どうしようもありません。恐らく彼は日々衰えていく自分の身体を感じ取って、刻一刻と個体死に向かうことを直観しています。死なないと言えば嘘になります。もうじき死ぬだろうと言えば恐怖を増長するだけです。私は考えました。
「検査結果には特別な問題はありません。
それに、今すぐに死ぬ脈ではありません。
ただし、腎が弱っています。
それで心が昂って眠れないのです。
漢方薬で治療を始めてみましょうか。」
老人の瞳に僅かな希望の色が宿ります。腎虚の基本処方を考えたくなりますが、食欲が落ちている老人に地黄剤はキツいでしょう。ここは黄耆の働きに期待して、さらに心疾患に注目すると処方はひとつに決まりました。
薬だけでも効きそうですが、言葉も処方したほうがいい。そう思って私は再び彼に声を掛けました。
「大丈夫。寝ても死にません。
正確に申し上げますと、
『寝ている間に死んだらどうしよう。』と、
心配している人は、寝ても死にません。
だから大丈夫です。
勿論、いつか人は死にます。
心配しなくなった頃に、そっと死にます。
でもそのときには心配していませんから、
やっぱり大丈夫です。」
付き添いの家族と、近くにいた医療スタッフが吹き出しました。一種の賭けでしたが幸いご本人にもユーモアが伝わった様子で、クスリと笑顔が溢れました。
「まいったなぁ。先生にそう言われたら、なんだか大丈夫な気がしてきたよ。」
家族に支えられながらも車椅子から立ち上がり、彼は帰路に着きました。
3週間後に外来を訪れた老人は、さっぱりした表情で「元気です」と言いました。あの日から、眠るのが怖くなくなったそうです。漢方薬もピッタリ合ったようで食欲も回復し、5歳くらい若返って見えました。
それから幾度か診察させていただきながら処方内容を調整して、必要最小限の薬で今も元気に生活していらっしゃいます。この調子ですと、ひょっとしたら百まで届くかもしれません。恐怖と苦痛の延命治療とは本質的に異なる医療を、私は実現したいのです。
拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは貴方の睡眠が、穏やかで幸せなものでありますように。
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