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ねじれの位置
「お蔭様ですごく良くなって。ありがとうございます。」
母は私に対して、言葉の半分を敬語で話します。何処か他人行儀な親子関係は、幼少期の家庭そのままに時が止まったようだと私は思いました。
穏やかで寡黙で頑固で癇癪持ちの父親と、優しくて過干渉でヒステリックで話の通じない母親の間に、私は生まれました。妹が生まれるまでの数年間、夫婦喧嘩の絶えない家庭であったことを旧い記憶が語ります。怒鳴り声、叫び声。物が壊れたり、血が流れたり、痛みと恐怖と雨漏りと隙間風の家で過ごした子供時代は、幾つかの精神的外傷を私に遺しながら、静かに幕を閉じました。
『傷になっちゃってると、完全には治らないことも多いので。日常生活に戻れる人もいるし、そうじゃない人もいます。長い目でみていく必要があるかもしれません。』
いつか主治医に云われたことを、私は思い出しました。
病名を複雑性心的外傷後ストレス障害(complex post-traumatic stress disorder;CPTSD)といいます。
精神科領域の疾患概念は正確に診断すること自体も困難で、診断を下すことによる弊害もありますから、状態を安易に分類すべきではありません。ICDもDSMも当初は学術研究のための疾患分類として考案されたものですから、個別の診療における診断病名は、さして重要なものではないのでしょう。
当時はC-PTSDという概念は未だ確立されておらず、depressionだとかPTSDだとか、そんなことを言われたような気がします。それに付随した解離症状にも、長いこと苦労しました。
色々と落ち着いていた頃に起きたパンデミックの影響は、少なくなかったと振り返ります。最前線で未知の感染症診療を行うことのストレスは、相当なものだったと思います。それは妻にも言えることで、第一子が生まれた年から始まったパンデミックは、私たちの生活に暗い影を落としました。毎朝、私を職場に見送る妻は、当時の心境を「まるで戦地に向かう夫を見ているようだった」と懐古します。今でこそ危機感の薄れたCOVID-19ですが、アルファ株からデルタ株のあたりなど、健康成人が半日の間に急激な呼吸不全に至り倒れていく激烈な臨床経過を、私は生涯忘れることはないでしょう。いつしか妻の心身も異変をきたし、色々なことが起きました。その過程で塞がっていた疵口が離開したのかもしれません。
今から2年ほど前に限界を迎えた私は、再び専門家のもとを訪ねました。診療を進める中で伝えられた病名が、C-PTSDというものでした。リアルタイムでnoteの記事にも断片を残しましたが、当時からお付き合い下さっている方々には大いに支えられ、どうにかこうにか、私は日常に復帰しております。
改めて、感謝を。
この2年、過去を清算しようと、幾度か両親と会話を試みました。そうして分かったことは、やはり父も母も話が通じないということでした。父と母にはそれぞれの正義があって、それはそれは結構なことだと私は思いました。とはいえ、通ぜずとも言葉を放つことができたのは、ひとつ大きな成果であったと振り返ります。少なくとも、この試みによって私は私の人生に集中できるようになりましたから。
来なければいいのに、外来に母が訪れました。たしかに具合が悪そうで、仕方ないので治療しました。白衣は私を医者にします。私は医者として、ひとりの患者を治療することにしました。
果たして元気になった母は、冒頭の台詞を述べました。幾つか会話を交わしたけれど、それは互いに投げっぱなしのキャッチボールのようで、ああ無益なことだと心の凪ぐのが分かりました。
きっと、ねじれの位置です。
永遠に交わることのない、直線。
角度によって交差しているように見えても、それは錯覚に過ぎません。親と子の関係性など、勘違いの温床です。親の心子知らず。子の心親知らず。生まれて初めて出会う他人が親というものです。人と人との関係性を信じ切ることのできない自分は、これから何処に向かうのでしょうか。
振り向くと、踊る息子が居ました。
彼は元気一杯、ケツだけ星人に勤しみます。
娘はデーモン閣下のモノマネをしています。
カオス。私は吹き出しました。
私の笑ったのを見て、息子と娘は心底嬉しそうに飛び付いてきました。
「おれ、パパのことだいすきだよ。」
「ぼくもパパのこと、だいすきー。」
なんだか泣けてきて、私は彼らの小さな体を抱き締めました。オッサンどうした?と息子が心配そうに頭突きをして、パパひげ剃って、と娘が顎をツンツンしました。
自分が断ち切るのだと、私は考えます。子が生まれなければ、100%断ち切ることが出来たでしょう。しかしながら、それでは私が救われない。私は自分のために、親になりました。子どものために、なんて綺麗事を言える立場ではありません。ただ人の親になったからには、最善を尽くそうと決めています。それが責任というものです。だから私は、息子と娘に全力で向き合います。
『お前も蝋人形にしてやろうか!!(迫真)』
其処にはデーモンフェイスで追い掛けて来るオッサンの姿と、それを見て逃げ回る子どもたちの笑い声がありました。
拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の宿命が乗り越えられる何かに変じますように。
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