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日記も書けないほど忙しい生活なんて絶対におかしい——アカデミアに生きることのすすめ

「いや、そもそも本も読めない働き方が普通とされている社会って、おかしくない!?」

三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、まさにこの疑問に正面から向き合った本だ。
ただ、正直に言うと、私は最初この本を読むつもりがなかった。「本が読めない」と悩んでいないし、タイトルを見た時点で自分なりの答えを持っていたからだ。

それなのに、なぜ私はこの本を手に取ったのか?
この本は単なる読書指南書ではなく、「なぜ読めなくなったのか?」という構造的な問題を扱っていたからだ。

今回は、本書の特徴と、それについて考えたことをまとめておこうと思う。



この本は自己啓発書ではないが自己啓発的な側面を含んでいる

ノイズ」の少ない「情報」を「処理」する。
これが、現代の自己啓発の大まかな特徴である。

本書では、日本の労働と読書の関係性を、その歴史からひも解いており、日本の労働環境はいかように変わっていったのか、読書はその環境でどのようにして扱われていたのかを示してくれている。

この内容にはいささか驚かされた。現在ベストセラーになっているくらいなので、大衆に簡単に刺さるように書いてある、いわゆる「自己啓発書」に類するものだと想像していたからだ。

本書には自己啓発書によく見られる”科学的なエヴィデンスがうんたらかんたら”とか、”誰それの成功者はこのように読書を習慣にしていた”、というようなアプローチがない点でユニークであると言える。

「科学的にこうだからこうしよう」は人々を簡単に納得させることができるが、彼女はその手法を取らなかった。この点に彼女の独自性のある意見が集約された、本書の魅力が詰まっている。

三宅氏は、労働者にとっての読書という行為、延いては情報と知識の違いといったことを抽象的な概念を用いながら、我々が読書から遠ざかっている理由を説明している。

本書が扱う「日本の労働と読書の関係史」の部分に着目すると、これは明らかに本書で定義するところの「ノイズ」に分類されるものである。故に、本書を読むには一定の集中力が要求され、ただ一定の激励の言葉を浴びるだけの受動的な態度を許さないのである。

これはあくまで私の想像にすぎないが、もしも、彼女の主張を良い感じにまとめて、さらに「自己啓発書」的な形式に落とし込んで出版していれば、売上は跳ね上がっていただろうと思う。

しかしながら、彼女および出版社はその手法を使わずに、そのうえで、売上を確保することにすら成功した。
参考文献もかなり豊富で、軽い文体でぬるっと書かれた論文を読んだような満足感さえ与えてくれた。

これだけでも、本書をまだ手に取っていない方にとって、魅力的な特徴だと言えないだろうか。


さて、上記で説明した通り、本書は自己啓発書の形式をとっていない、極めて優れたベストセラー本である。

しかしながら、本書がブームを起こしたのは、その裏に見え隠れする「自己啓発書的な側面」なのではないだろうか。

本書のタイトル『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という疑問は、ひっくり返せば、「働いている我々は本を読むことができない」という現代の課題を突きつけているとも言える。

タイトルを読むことで、労働者に「あなたは本を読めない」という問題意識を無意識下で植えつけ、「これを読んだら、本が読めるようになるかもしれない」という希望を見せる。
本書のタイトルにはそのような作用があったのではないだろうか。

何度も言うように、蓋を開けてみれば本書に自己啓発書的な側面はほとんどないのだが、タイトルを目にした段階では、自分に足りないものを補いたいという、一般的な自己啓発書への志向性と同様のものが働くという推測も、全く理解できないものではないだろう。

自己のコントローラブルな部分に目を付け、生活が少しでも豊かになるかもしれないという”自己改善”という面で、本書のタイトルはその欲求を強めたのではなかろうか。

さらに、本書の終盤でまとめられた三宅氏の主張にも注目したい。
彼女の最終的な主張は「仕事に全身全霊」の社会を緩和し、「働きながらでも本を読める社会」を作ろうという、仕事に対する向きあい方に結び付いている。読者に少しでも読書に触れさせるべく、意識的な改革を提唱している。
大きく見れば、これも自己啓発書的な要素ではなかろうか。

三宅氏は自身の語りによって、自らの著作を自己啓発書の定義から遠ざけながら、読者を鼓舞≒自己啓発することに成功している。
彼女は自己啓発でない書物を生み出す過程で自己啓発をするという、新たなアプローチを可能にしたと私は考えている。


本が読めない人に向けてのメッセージを本で書くというアンビバレンス

多くの人がこのことに引っかかったのではなかろうか。
残念ながら、この矛盾は一種のお笑いのような要素すらある。

実際に私が体験した出来事を紹介しながら話をしよう。
以下は私と上司のLINEの抜粋である。

私「スマホ置いて本読みましょ」

上司「どうしても能動的にならないとダメじゃないですか、疲れてる時ってそんな気分にならなくて」

私「(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のリンクを送る)
これ思い出しました」

上司「本読めへんって言うとるのに本を持ち出してくるのさすがです」

姫路出身の上司が若干神戸弁なのと、私に敬語を使っているという奇妙な状況はさておき(お互いそういう性格なのである)「そらそうよな」という返答である。

本書の最大の欠点がここに現れている。
マーケットのターゲットは基本的に労働従事者だろう。学生なども手に取るだろうが、まだ黒く染まっていない幼気な彼らをメインターゲットにしているとはあまり思えない。

つまり、この本を読みたいであろう人間のほとんどが、おそらくなんらかの形で仕事に従事しているにもかかわらず、当の仕事をしている人間たちは本が読めないのだ。

そうするとこんな考え方もできる。
(積読という例外はあれども)この本が売れなければ売れないほど「働いていると本が読めなくなる」という主張は強化されるし、逆に売れれば売れるほど「いや、意外とみんな読めているじゃないか」ということになってしまわないだろうか。

なんというアンビバレントだろうか。
しかし実際のところ、本書はかなり売れているらしいので、みんな隠しているだけで実は本を読めているのではなかろうか。

いや、そんなことはないだろう。
これからその話をしようと思う。

先述の通り、本書は若干の「自己啓発書」めいた部分がある。それに釣られて売り上げは上がっていき、三宅氏の言葉の魔力に絡めとられて、読者は読書(ノイズありの知識の習得)ができていないことに気づかされる。

これはいい本だと誰かが言い始め、流行の波が少しずつ高くなっていく。
話題本と位置づけられたものは、(本書でもその背景が示されていた通り)サラリーマンの話のネタにも使用される。
この本を読むことが、社会のある種教養的な位置づけを確立し始める。

「情報を手に入れなくては!」と一般労働ピープルが震え始める。
なにも考えていない彼らはこぞって本を買う。

ほら、売れますよね?

……と、半ば冗談で言ったものの、実際にありえる話だとも本気で思う。

先日、米津玄師氏のインタビューが話題になった際も「俺たちが『なぜ働(略)』すら読めていないのに、米津は竹内洋を読んでいる……」というようなポストをXで見かけたことだってある。

購入後に本当に読んでくれているかどうかは、売上データからはわからない。

本書はそうしたアンビバレントも内包しているところがエキセントリックである。


果して彼女自身は「半身」で生きているのだろうか

本書は小説や詩作の部類ではないため、作品の芸術性を評価されることはない。故に、読者や批評家たちが、著作物と作家の関連性について論じることを可能にしてしまう。

正直、私はこうした批評のやり方があまり好きではないのだが、これが芸術的作品存在でない以上致し方ないことである。解剖のメスは否応なく著者である三宅氏に向けられる。

本書のあとがきに彼女自身は以下のように認めている。

(こんな本を書いておいて言うのもなんですが)私自身は、働くの、めっちゃ好きです。

三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』271頁

ここを読んだ際に「でしょうね」と思った方も多いだろう。彼女は既に単著を10冊以上も出版していて、明らかに仕事の成果が出ているタイプの人間である。京大院出身。ハイスペック。彼女を評価するのに、決して極端な表現ではないだろう。

本書の第七章あたりまでは、労働と読書の歴史について論じているだけなので、彼女の想いなどは基本的に現れてこないのだが、最終章に近づくにつれて、彼女なりの結論に入ってくる。
私はそこに彼女の優しさを見た。

三宅氏は自身の主張をまとめるのに、上野千鶴子の「半身で関わる」という表現を引用した。これを労働に援用することで、読書ができる社会を促進できるのではないだろうか、というのが彼女の主張である。

しかしながら、「全身全霊」を礼賛しその状態にあることを「楽だ」と批判はしているものの、かなりいろんなところに配慮しているながら主張しているなあという印象は少なからずある。

三宅氏はおそらく優しくて、全身全霊で取りくんだことによって人々が苦しんでいくのを放っておけないのだと思う。

私のようなドブ人間は「本を読めない」という人を見て「うるさい黙って読め、気合いが足りとらんわ」なんて言ってしまうわけだが、その一方で、彼女はきっとそんなことはしないのだろうと感じられた。

実際のところ、三宅氏がどこまで「半身」を実践しているかは定かではない。この点、本書はある種のファンタジーを形成しているともいえる。いや、多分言えない。過剰考察である。すみませんでした。


労働に半身という姿勢で読書量は増えるかもしれないが、読書人口自体はおそらく縮小し続ける

三宅氏は本書を通して、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」について考察をしてきた。
確かに労働時間が減ることで、そこに全身全霊でなくなった社会は読書量を増やす一要素にはなるだろう。

しかしながら、読書人口の減少自体は食い止められないんだろうな、という実感もある。
理由は以下の二つである。

①労働時間が減少したからと言って、読書をするとは限らない

まず、本書を読みながら、やんわりと思っていたことがある。
労働時間が少ない国は本当に読書量が多いのだろうか

これについては、「多分違うんだろうな」という感覚があった。
ネット情報のざっくりしたデータで申し訳ないのだが、以下を参照してほしい。

まず、労働時間が少ない国を調べた。以下は2023年の統計である。

本記事によると、2023年の労働時間が少ない国のトップはドイツである。同じ国の中での労働時間の推移を見た方がいいだろうなと思い、以下のサイトを参照した。

ご覧の通り、ドイツでは労働時間が年々減少していることがわかる。

しかしながら、ドイツ人の読書量が増えているのかというと、残念ながらそうではなさそうだなと思えるデータをいくつか見つけたのでご紹介する。

以下が2008年。

以下が2017年。

https://nielseniq.com/global/zh/insights/report/2017/%E3%80%8C%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E9%A0%BB%E5%BA%A6%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%80%8D-%E6%AF%8E%E6%97%A5%E3%80%81%E6%9C%AC/

以下が2022年。

どれを見ても「読書時間が増えました!労働時間減少のおかげです!」とはなっていない。

⚠無論、この主張にはいささか無理があることは承知である。
・これはドイツだけの話であること。
・本当にちゃんと調査するなら他国の実績と比較した方がいいということ。
労働時間の減少の割合と読書量の減少の割合にどの程度関連があるかも確認する必要があること。

以上の点で、穴だらけであることは私も認めるところである。
しかしながら、どうしても労働時間だけではなんともならないだろうな、というのが私の所感ではある。

実際、2017年時点の労働時間の少ない国ランキングは1位がドイツで、デンマーク、ノルウェー、オランダ、フランスと続くが(下記リンク参照)、上の画像と比較していただければお分かりの通り、2017年で読書の頻度が高い国が並んでいるとは言えない。

以上の点で、長い目で見れば読書人口は減少の一途をたどるばかりだということは、受け入れた方がいいだろうと考える。

しかし、いい情報を見つけたのでご紹介する。

ドイツ大使館によると、コロナウイルスの影響で、全ての世代で読書量は増えたらしい。おそらくだが、このような現象はどこの国でも起きたのではなかろうか。

コロナ禍においては、たしかに多くの人が労働に対して「半身」である状態だったと言ってもいい。

つまり、長い目で見た読書人口の減少は防ぎようがないかもしれないが、「半身」でその度合いをいくらか軽減する力はあるかもしれないな、というのが私の所感である。

②スマホという最強の敵がいる

冒頭で述べた「自分なりの結論」とはまさしくこれである。

しかし本書を読んだことで、この考えは多少修正されたのも事実である。
スマホが登場する前から「若者の読書離れ」という言葉があったことや、過去にはスマホでない娯楽がたくさんあったことなどが指摘され、必ずしもスマホだけがその原因でないことは、納得できた。

ただし、スマホが従来の娯楽とは一線を画す、中毒性が著しく高いドーパミンドバドバ放出端末であることには一定の注意が必要だろう。

たしかに労働時間が減ったら読書はしやすくなるだろうな、とは考えられた。
しかし、読書に充てられる時間が増えるということは、スマホを触れる時間が増えることに直結してしまう、という元も子もないリスクがある。


超個人的な最適解:そもそも読書を必要とする仕事・生活をすればいい

露骨すぎる。身もふたもない。しかしこれが絶対に一番だ。
アカデミアな仕事を志せばいいではないか。

実際、三宅氏を見てみるがいい。彼女の仕事は「文芸評論家」である。
本を読まなくては絶対になりたたない仕事だ。

一週間のなかでもっとも時間を割く必要がある労働時間にそもそも読書時間があれば、こんなに効率のいいことはないのである。

(あまり大きな声では言えないのだけれど、私が普段塾講師をやっているのは「英語の勉強を労働時間に組み込めたら一石二鳥じゃないか」という考えゆえなのである。つまり私はこれを地で実行しているわけだ。天才である)

ゆえに、本を読みたかったら全員研究者みたいなものになってしまえばいい、というのが私の暴論なのであるが、学問なんぞ興味ないという人も多いだろう。
そんな一般ピープルたちはどうすればいいだろうか。

読書を必要とするような仕事をしたくなければ、労働以外の時間、つまり休日や平日のスキマ時間に読書の時間を設け、さらにその絶対量を増やす必要がある。

しかし読書を増やすために「労働時間を減らせ」と言われても、個人ではどうしようもない。

そこで私なりの結論として「日常にアカデミックな時間を取り入れること」をお勧めする。

例えば、休日にカフェではなく図書館に行く。
仕事終わりにスマホではなく、美術館や博物館に立ち寄る。
「学ぶこと」を習慣にするだけで、読書へのハードルはぐっと下がるはずである。

考えてみると、世人は頽落し、なにかに没頭せずにはいられないのだ。だから全身全霊であるという「楽」をどうしても求めてしまう。人間とは本質的にそういう生き物である可能性がある。
頽落の日常に読書がつけこむすきがなければ、どうしようもない。

だからこそ、読書を仕事以外の実生活に落とし込むための指針が必要ではなかろうか。

私は最近この「アカデミアに生きる」というコンセプトを掲げて生活している。
無論、私のようなゴミカスが「アカデミア」なんて大層な名前を掲げる資格はないと言えばないのだが、うるさい、私が自分で主張する分には自由である。私が実際アカデミアな人間でないことは、どうか大目にみて欲しい。

しかしこのようなコンセプトで生きることで、私は普段の生活が基本的に図書館や美術館の往復になっているのは事実である。

なにが楽しくて休日に図書館で「存在と時間」をノートに写し取っているのだろうか、と考えてしまうこともあるのだが、「スマホをだらだら観ているよりかはよっぽど有意義か」と考えることにしている。
これによって、スマホをダラダラ見る時間が減り、本を読む時間が確保しやすくなった。

読書を「やるべきこと」ではなく、「自然な習慣」にしてしまえばいいのだ。

みなさんも、生活のなかに無理矢理「アカデミックな自分」を取り入れて生活してみることで、読書を少しでも励んでみてはいかがだろうか。


まとめ:日記も書けない働き方を普通にするな

本を読む時間がないほどの働き方が「普通」になっているのは、やっぱりおかしい。
この本は、「読書指南書」ではなく、社会の仕組みそのものを問う一冊だった。

三宅香帆は、文体やスタイルを自由に使い分けることで、より多くの人に問題提起をする。
そして、この「本も読めない社会を変えよう!」というメッセージは、まさに彼女自身の生き方ともリンクしている。

私自身も、新卒で働き始めたときに似たような経験をした。物書きになりたいという気持ちが強かったので、毎日日記を書き、休日の朝は創作に打ち込むことが大学時代からの日課だった。しかし入社して二か月ほどして私は現実を突きつけられた。
「日記を書く余裕がない」
そして、
「日記も書けないような忙しい生活なんて絶対におかしい」
とも考えた。

あまりにも疲労が蓄積し、それどころではなくなっていた。読書はそれなりに続いていたものの、やはり大学時代に比べれば圧倒的に読破数は減った。

日記も書けないほどの忙しさに疑問を持とう。
本も読めないほどの働き方を「当たり前」にしてはいけない。


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