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ACT.68『はまなすにさよならを』

最北端追求

 宗谷岬は、昭和51年のNHK『みんなのうた』にてダ・カーポの楽曲である『宗谷岬』がオンエアされた事を受け、全国規模にその知名度が拡がった。そしてその影響…になっているのか、周辺は最果ての場所とは思えないような喧騒に包まれ、多くの観光施設が立ち並ぶ。
 宗谷岬の石碑周辺では多くの人が記念撮影に興じ、宗谷岬の観光地たる知名度を現在に物語っている。
 宗谷岬での滞在時間は、決して長くない。何しろ公共交通機関を利用して訪問しているので、時間が稚内行きのバスが来るまでしか滞在できないのだ。これが財布に多くのお金を貯めて、タクシーでの往復も可能だったら違ったのだろうが。それか自転車。しかし、自転車を借りたとしても宗谷岬から稚内駅までの距離は難しいような気がした。
 そこまで多くの観光施設には訪問できないが、冒頭の『北緯45度〜』と記されている看板の建物に入る事にした。どうやら土産物を販売したり、宗谷岬の訪問記念館のような場所になっているらしい。
 入店し、土産物のコーナーを覗くと全国お馴染みの土産物屋の定番…としてお菓子は勿論、食品に絵はがき等が販売されている。自分はその中で、最北端への訪問の記念に宗谷岬のペナントを購入した。
 ペナントはフェルト製だ。そしてこの他にもう1つ商品を購入。確かペナント代が440円…と追加の買い物が330円で、770円の買い物になった。ペナントを買う…というのは、往時の修学旅行生のような気持ちになって心地良い。
 ペナントの中には、宗谷岬周辺のイラストの他にダ・カーポの楽曲『宗谷岬』の歌い出し
『流氷溶けて はまなす揺れて』
から始まる宗谷岬の歌詞が記されていたのであった。良い土産を買ったように思う。

 店の横には、ポストが設置されていた。
 このポストへ、自分が世話になっているクリニックへのメッセージを書いた絵葉書を入れた。
 絵葉書は前回にも記したように、アイヌの民族衣装を着用した女性がムックリを湖畔で奏でる写真の絵葉書である。
「ま、これも少しの土産になるか…」
何かを企むような顔でポストに絵葉書を投函し、到着するのを何か念じるような気持ちでポストの写真を撮影した。(その写真がコレ)
 京都へ帰ってから、クリニックの方でその到着した絵葉書を見た。
「…ハガキ着きました?なんか書いてあるやつ。」
「うんうん、来た来た!先生と一緒に、あ〜、〇〇くん(本名)北海道に今いるんや〜!って…」
「おぉ!そうでしたか!…ちなみにどんな感じやったか見たいんですけど…」
「はい。どう?覚えてる?」
この時、北海道の旅を終えて既に1週間近くが経過していたが、ハガキの裏を見るだけで前回に記した慌ててバスの列でメッセージを必死に考えた事、そして切手の代金に悩んだ事…などがありありと浮かんできた。
「切手は悩んだんですよ、結局分からんくて100円になるようにしました。」
「でもさ、今のハガキって62円で全国行けるんじゃなかったっけ?」
…全く、自分の経験足らずです。
 と、仕掛けが成功したので…というか、不意打ちな土産の渡し方が成功したので、また次回も何処かでこういった事に挑戦しようと手応えを感じる事が出来た。
 しかし、このポスト最も意外だったのが消印が通常の消印だった事。
 堂々有名な観光地から送付したハガキや郵便物には、消印としてご当地のネタが入ったり限定の消印が入ったりする事がある…かと思う。自分は少しその期待を賭けたのだが、京都で到着したハガキを先生たちと眺めた時には完全に拍子抜けしたものだった。

 ポスト裏手には、こんなものもある。
 『日本最北端自販機』だ。
 思わず、こうした見出しが横に掲出されていたので写真を収めてしまった。
 自販機に関しては我が国で生きていく中で全く考えもせず、自覚もせず利用しているので何処でどんな自販機を利用したか…という概念に関してはあまり気にしない。恐らく、特殊な自販機や特殊な商品を扱う自販機でなければノーマークだろう。
 しかし、そんな中この『日本最北端自販機』。さり気ない主張で、観光客に軽いアピールもしている。
「おぉ、コレは面白い事してんねやなぁ…」
自分はそう思って眺めただけで、この自販機での購入は何もしなかった。(しっかりとオチ)

歌に因んで

 宗谷岬の最北の土産物屋…として、この写真の店舗、『最北観光』は鎮座している。この裏側、そして車道を隔てた先にも土産物屋はあり、観光客に大好評だった。
 中には食事処もあったのだが、自分の中で短時間にバスを待機している時間内で食事を済ませられる自信がなかったので、行くのは完全に躊躇った格好になる。お陰で何も食事を昼間食べる事がなく、事実上の昼抜きな格好になったのだが。海鮮を堂々と宣伝した店だったような。
 さて、この宗谷岬での『日本最北端』を堂々と宣言する土産物屋『最北観光』。この最北観光さんの店舗内で、衝撃的で博物館のような場所を発見した。

 それが、この写真内の看板に記されている『流氷館』という施設だ。
 『流氷館』はこの『最北観光・柏屋』の店舗内奥に設置されている。写真では流氷館の設置されている旨が分かりにくい…と思うのだが、『入場無料』と青字で記されているのが流氷館の目印だ。
 『流氷館』はこの『最北観光・柏屋』の奥まった場所に併設されている。
 同じような場所に見えて隔離されている…というのか、少し別な区切りがなされており、入館するとまず宗谷岬の幻想的な写真。そして自然美の豊かな稚内の写真で出迎えられる。中には動物の剥製もあり、いきなり何か只者ではないような空気を感じる。
 そしてここからが肝心なのだ。
 『流氷館』に入館する時、まず扉に記されたこの文字に刮目してしまう。銀色の冷たいステンレスのような質感の扉で仕切られ、先には明らかに冷やされた室内の情景が飛び込んでくる。その銀色の扉に掲出された文字は、このようになっていた。
『低血圧、心臓病の方は氷室内に入らずガラス越しからご覧下さい』
 思わず、この文字を掲出した看板に躊躇してしまったのだが、取り敢えず…と思いながらも中に入ろうとする。しかし勇気が中々出ず、そのまま入って10分程度したところで出てしまった。
 今でもこの部分だけは記憶しているのだが、ガラス越しに観測できた部屋の中に入るとスーパーで貰えるドライアイスのような色と形状をしたような白い物体が並び、そして部屋の中は少し暗めの蛍光灯。そのまま写真撮影するかどうかも躊躇ってしまったので、すぐに眺めた瞬間怖くなったのだった。
 室内はマイナスの世界になっており、北海道の自然の『らしさ』を体感できるのだそうだが、完全に自分の中では『人間冷蔵庫』のような印象しか感じられなかった。そうした認識を薄暗い部屋の中で覚え、流氷館のドアを勢いよく閉めて元の夏の陽射しさす世界に帰ったのである。
 ちなみに『流氷館』。入口扉付近には、
『流氷館』と書かれた看板があり、その中にはデフォルメされたキツネのイラストが。そのセリフ?らしきものとして、
「ウー凍っちゃった…ワー!流氷ダー!!」
との文字が入っている。看板自体の『流氷館』の文字は斜体で記され、イラストに関しても如何にもな昭和感が出ていた。
 今更にして思うが、流氷にビビって、マイナスな気温に怖がって外に出ただけでなく。看板だけでも撮影して帰れば良かったと感じる始末であった。
 あまりも自分的にはオホーツクの冬を閉じ込めた場所、というよりは人間冷蔵庫のイメージでしかなかった。
 しかし。この宗谷岬周辺で流氷といえば歌にも登場する象徴のようなものであり、きっとその功績は大きいのだろう。改めて、ビビった自分を後悔してしまう。次、もし行ったとしたらあの昭和風な看板だけ撮影して帰るだけかもしれない。

ありがとう、最北よ

 最北の地点、宗谷岬を去る時がそろそろ近づきそうだ。昼過ぎ付近まで滞在できたが、やはり交通機関での訪問は難しいように思う。もう少し時間を調整すれば、楽に楽しめたのかもしれない。
 宗谷岬に訪問できた事は、若者の経験として大きく充実したものだった。当初は昔のバラエティ番組の聖地感覚で訪問し、そして「やはり北海道だから』としての認識が過っての訪問だった…が。その体験は実際に向かってみると、
「あぁ、自分が生まれ育ち国民として暮らす国の先っぽってこんな形なんだなぁ…」
というか。宗谷岬の国土としての先に思いを巡らせてしまう。旅人として、若さを蓄えた今として。この場所に行けたのは大きな体験だったと思う。再び、この場所に機会があれば。生涯のチャンスがあるなら向かってみたいものだ。
 宗谷岬の関連施設。そして流氷館…などのある場所から対岸に渡り、バスの待機列に混じった。名残惜しいが、稚内の駅に戻らねばならない。
 滞在時間は1時間程度だった。そのまま日本人・外国人との観光客中心の列に合流して待機する。
 バスが入線してきた。列の中腹だった…のだが、そうした中でもバスの撮影は余裕に出来た。しかし行き先がシャッターで消し飛んでしまったのが本当に悔しいというか、記念撮影には勿体無い所か。後に自分が乗車した記憶も含めて復習をと稚内方面のバス時刻表を見直したのだが、このバス路線は天北宗谷岬線という長距離を走破する路線バスであった事が判明した。しかも稚内を越えて鬼志別・猿払・浜頓別にも走るという。どれだけすごいんだ。区間として乗破してみたい。

 映り込む乗客。そして観光客の姿を見れば、この最北の大地が観光地として昭和・平成・令和と現在まで愛され開拓されてきたさまがよく分かるとでも表現しようか。
 再び、バスで30分越えの戻り道だ。
 遠ざかる海の景色を目に焼いて、宗谷岬の記念碑も見届けて稚内の中心部に走り出していく。
 帰る時のバスは、行き…と違い更なる圧迫感を感じた。路線バス自体は長距離を走行し、宗谷岬に到達した時点ではラストスパートに差し掛かって走行するのだが、我々観光客の乗車によってその車内の混雑度が増加した。ゆったりとしたバスの旅路に腰掛けている乗客がウトウトしている中では、我々のような一時の見物人の家路など相当な迷惑だったろう。(言い過ぎか)
 …だが、このバスに乗車しても意外な事があった。
 自分が乗車した座席は、2人掛けの通路側だった。後輪のホイール付近の突起。その中で少し狭まるようにして乗車していたのだが、ふと窓を除いてみる。そうした中で、窓枠に不思議なものが装着されていた。USBポートだったのである。
「ホンマに使えるんか分かれへんけど、装着してみるか…」
同席した家族の方、すいません。
 とそんな恐縮した思いも込めてUSB部分に端末の充電配線を突き刺す。
 ブゥぅぅん…と携帯に振動が伝達され、画面には電池のマークに稲妻が映し出された。
「お、充電できるんだ…」
こうした影響もあって、稚内の周辺ではかなりの充電に配線に助かった。バッテリーに1番負担がかからず。なおかつ1番楽に旅の時間を過ごせた場所だと今でも思っている。本当に稚内周辺は交通機関も含めて、かなり旅人に優しかった。

どれだけ待てども

 稚内駅に到着した。最北端、宗谷岬を満喫した国内外の観光客に見物人を中心にラッシュアワーの様相を見せたバスの旅路が、稚内駅のバスターミナルで終了したのであった。
 さて、到着して以降もまだ時間がある。この後、稚内を出発するのには特急・宗谷号に乗車する事になる。17時台の発車になるのだが、到着時間があまりにも早すぎたので周辺の観察には異様なまでの時間があった。しかし、宗谷号の乗車も中々長距離極めていくのだがその話は後に…
 写真は、稚内駅の周辺にて発見したポケモンマンホール、通称ポケふた…と呼ばれるものだ。
 全国各地の宣伝に。地域大使などにポケモンたちが任命され、その結果としてポケモンたちの全国派遣としてこうしたマンホールの蓋や、自販機の装飾。そしてまた福島のラッキー公園のように観光地の誕生につながっていく。
 北海道では、狐をイメージしたポケモンとして。こおりタイプのアローラロコンの存在も兼ねて。この地には『ロコン』が起用された。北海道でロコンを発見したのは、白老の自販機以来2回目である。まさか稚内の駅にもあるとは。

 稚内の駅で長い滞在時間が取れた。この隙に食事に入るしかない。
 だが、営業時間も既に昼過ぎ…または夕営業に向かった準備などとして、休憩中な店も若干あった。偶々発見した店で、鹿の角を再現し牛を象ったクッキーがあったので急ぎ気味に。
 値段は合わせて310円だ。財布にもしっかり優しく…
 一応、北海道に来たら牛乳を!という目標は、この牛乳関係のメニューを制したところで叶ったろうか。ってそれにしても無理矢理すぎだなぁ…
 しかし、公共交通機関で稚内を訪問し。そして宗谷岬を見て帰っての流れ。また、駅もそうだが宗谷岬周辺での食糧に関しては、余裕がそこまでなかった思い出が今でも残る。もう少し、考えて貰えませんか…。

 近くにカフェがあったので、閉店する間際になってしまったが欲が抑えられず、そのまま買ってしまった。シマエナガブッセに続き、鹿の角パンと牛クッキーもそうだが、結局甘いものを胃に溜めて言い訳をしようとしている感じしかない。
「すいません。ケーキ…良いですか?」
躊躇いがちに、もう既に暖簾を下ろす準備をしている中に、注文を入れた。
「コレ?えーと、あとはコーヒーだよね、700円です。」
と、多大なる感謝をした上で目の前に並んだケーキセットがコレになる。
「そういや北海道来たらショートケーキを食べようと思ってたんですけど、値段そんなに変わらないんですね。」
「どっから来たの?」
「京都なんですよ…」
「京都?でも京都で買ってもこのケーキはそのくらいの値段するよ絶対に…」
「ですよね、北海道で牛乳たくさん取れるから、道内だけ値段バグってるのかと…」
「あはは、そんなのないない。絶対にコレは100円とかその勢いじゃ作れないわよ。」
「母が昔、洋菓子関係の仕事だったんですけどかなり労力かかるって言ってましたし、こだわりも管理も大変ですからね…」
「お母さんにまた帰ったら色々聞いてごらん。ケーキ作るまでの苦労たくさん聞けるから。」
えぇ、ごもっともです。生クリーム沢山摂れると思った自分が間違いでした。
 と、そんな親の感謝や職業に思う事を感じつつ、甘くて苦い昼過ぎを迎えたのだった。

あぁ、ソビエトよロシアよ〜道北鉄道へ〜

 稚内の駅には、鉄道ファン。そして旅人も含めた多くの人の撮影ポイント。そして北海道の鉄道の象徴として、こうした車止めが残されている。
『日本最北端の線路』
この文字が、稚内の駅から伸びた線路に誇らしげな文字を刻んでいる。
 自分の中で、この稚内土産に購入しなかったもので後悔している品がある。
 それが、樺太方面で撮影された、北海道とロシアの関係を象徴する…というのか、北海道から見たロシアの写真集・写真で綴られた書籍だったのだ。
「えぇ、コレは欲しいな…でも今は旅の後半であろうとまだ札幌も見てないしアカンわ」
しかもかなりの高額写真集であり、購入は完全に諦めた。
 書籍には、ロシア樺太の生活に街の様子。そして何気ない自然の景色など、樺太を鮮明に克明に映し出したものだった。
「さっき見た宗谷岬の先ってのは、もうこんな情景が広がっていくのか…」
そう思いながらページを捲り、先へ先へ進めていくと何か望郷の念というのだろうか、遠く先がまた見えるというような実感が感じられた。

 宗谷本線は、大正1年に完成した音威子府までの鉄路をそのまま日本海に沿って天塩方面の大地に沿って延伸開業した路線が現在の姿として残っている。
 音威子府からは、浜頓別を経由して稚内へと迂回するような路線、天北線が開業した。こちらはオホーツク海を望んで走行していた路線だ。
 宗谷本線の現在終端、稚内。この駅から先、鉄路は更に北上していった。日露戦争・ポーツマス講和条約によって樺太を日本領にし、稚内から先の線路を樺太に築いたのである。
 時代は明治35年以降の話になってくるが、コルサコフ〜ウラジミロフカまでの区間を結節した。路線の使用目的は、占領地での軍用鉄道としての使命。乗客の輸送は簡易的な屋根を張った貨車が担当し、線路幅は軽便鉄道並みの600ミリという狭小な鉄道だった。
 明治43年に線路を改軌して、1067ミリになる。1067ミリは日本の在来線で主に採用されている標準的な軌間で、この改軌を近い時期にして樺太には様々な鉄道網が敷かれていく事になった。
 稚内と樺太の国土の間には、日本も充分に力を入れた。稚内から樺太の大泊まで、鉄道省は稚泊航路を設定し連絡船を航行させた。この稚内と樺太を繋ぐ連絡船には、下関〜釜山までを航行していた関釜航路の船舶。そして青函連絡船の応援助っ人も駆けつけ、盛況を誇った。後に新造船も就航し、冬季の流氷対策も施行された砕氷船も運航された。
 樺太側も船舶の桟橋を設置し、そして稚内もかつては終端駅ではなく先の線路があり、その駅は『稚内桟橋』として稚内から先の線路は正真正銘、最北まで到達していたのである。

 日本は樺太を条約で我が国の領土として支配をするうちに、昭和まで時代を生き抜いた。その時代の中で、路線拡張や樺太最大の私鉄・樺太鉄道の開業と順調に鉄道の拡張を進行させていった。
 しかし、昭和20年の終戦を迎える事になる。この終戦では、樺太は(旧)ソ連に接収され、同時に稚内桟橋も大泊の桟橋も営業を休止した。昭和に入って、樺太の国有路線を管理していた鉄道局も廃止。樺太に日本が築いた鉄道網は、ソビエトによって歴史を閉じる事になったのだった。
 一方で、宗谷本線は樺太を我が国の領土としていた頃、樺太方面に向かっての連絡鉄道として尽力し、桟橋までの乗客や荷物を送り届ける使命を果たしたのである。
 現在稚内駅から先に伸びゆく鉄路の痕跡は、そうした樺太への路線網の静かな証であり、我が国の国有鉄道(現在はご存知のようにJR)の本当の意味での終端である事を語り継いでいる。
 機会があれば皆さんも、稚内の駅構内施設で樺太に纏わる土産を購入し。かつては桟橋まで続き、流氷の更に先にあった隆盛の線路に思いを寄せてみるのはどうだろうか。

はまなすにさよならを

 稚内から樺太までの海を隔てし日本鉄道網に思いを寄せた後、自分は列車到着まで暇を兎に角持て余した。
 少し前に掲載したケーキセットを食した場所。
 実はあの場所がカウンターになっており、そのカウンターの先端にはコンセントが設置されていたのである。
「使うしかないか、まぁその先でも幾らでもあるだろうけど…」
結果、充電乞食な自分なので誘惑に負けて使用。ブッ刺しの状態で特急宗谷を待機した。(折角の稚内なんだから楽しめよ)
 充電中は、母と他愛ない話でも盛り上がった。
『何日に福井?』
『29の夜じゃないかなぁ』
『29日に福井?』
宗谷岬での記念写真も送付し、束の間の遠隔での家族との交信に浸ったのだった。
 次の特急宗谷は、通常であればキハ261系イベント編成での運転…なのだが、旅をした際にはその充当予定の編成が富良野線での臨時快速運用の為、急遽もう1本が仕立てられた。このイベント編成の乗車を、自分はかなり楽しみにしていた。
 それが写真のピンク色の編成なのだが、待機時間の話をもう少しだけ。
 待機時間、駅施設の中に映画ポスターが多く飾られているのを発見した、白貴重な施設の中では、色彩の豊かな映画ポスター・劇画のポスターは魅力を放ち輝いている。観光案内所を通った時、質問してみた。
「2階とか表記がありましたけど、2階には何があるんですか?」
「2階には映画館があるんですよ。」
「あ。映画館…それで映画ポスターがあったんですね。」
まさかの映画館。道の駅の機能として、地域のエンターテインメントも牽引しているのか。なるほど。
 その後は、セイコーマートでスナック類を購入し、349円の出費。もちろんガラナも据えて、旅の準備は万端万端。

 これから乗車していく、キハ261系5000番台イベント編成である。
 JR北海道でのイベント開催。臨時列車運用の際には特急形であれば大概この編成を起用し、JR北海道の各路線を走行する形になっている。車両は非電化の為、道内の幹線なら大体の入線が可能だ。
 さて。この特急宗谷。現時点での時刻は大体16時30分から17時までの付近だ。特急宗谷は17時44分に稚内を発車する。特急宗谷は終点の駅が札幌になるのだが、札幌到着は驚異の22時56分だ。まず、旭川の時点でも21時32分でありこの列車の長距離走行ぶりが分かるのではないかと思う。夏場だからこそ、次の目的地では到着した後に陽が沈んでいると思うと、衝撃でしかない上に宗谷本線の長大さを改めて宣告されたような気持ちになる。最北までの道のりは行きも帰りも決して容易いものではないのだ。

 キハ261系5000番台・はまなす編成と改めて最北の看板を記念撮影。ま、撮りたくはなりますよね。
 この時点で、かなり多くの写真を外側から撮影した。というか、列の長さが絶望的過ぎて諦め、結局は外部からの写真撮影に徹していると考えていい。しかも外国人観光客が中心でかつ、母国語での応対を強いている状況なので中々列が進行しない。列車自体は指定席が主体なのだが、列を形成している長さ、改札時間の殺到に関してはもう何も言う事がない。疲れてきた。多くの外国人観光客。そして大挙した列に辟易しながらも、乗車の機会を窺う。まだかなぁ…

 ようやく駅構内に入ったが、発車時間キワキワというのか自由席区画を狙うにはギリギリの時間だった。なんとか着席は出来たのだが、それでも圧迫感を感じる乗車率だった。
 車両は改めて、キハ261系5000番台の『はまなす』編成。北海道の県花・はまなすを意識した前面のマスク状の塗装が優美で特徴的だ。
 宗谷岬の歌碑を考え、歌い出しとなる
『流氷溶けて はまなす揺れて』
の歌詞がこの場所を中心にして歌い継がれた歴史を含めると、何かこの車両で宗谷本線の最後を飾れる事は運命だったのかもしれない。思いがけない事だと、記事を書いている今では感じてしまうのだった。
 ちなみに。
 北海道では『はまなす』が県花になっているが、『はまなす』を起用した理由に関しては調べると、一般公募から採用されたものだと判明した。『はまなす』には
・純朴、野生的で力強い
・生命力が強く育てやすい
という理由での選定で昭和53年、北海道110周年を記念して『はまなす』が一般公募で起用されたとの事だった。

 キハ261系5000番台、『はまなす』編成の車内だ。
 指定席として販売される区画に関しては、カラフルな座席配列になっており、通常のキハ261系の暖色な色合いから脱却した差別化のスタイルになっている。
 ちなみに普通座席だがJR北海道の列車としては珍しくコンセント設置の車両だ。道内特急でも長距離の走行が必然的に長く続く列車なので、この設備は非常に有難い。
 しかし今となっては背ずりだけでもカラフルなこの状況、伊勢志摩を走る私鉄リゾート特急のかつての内装のようだ。
 しかし自分は指定席券を持っていないので、記念に撮影で通り抜けただけだった。
 本当に長距離、旭川までの乗車になる座席はもっと特殊なのだ。

 自由席区画…の車内はこうなっている。
 と言っても、この編成内での『フリースペース』扱いであり、乗車券と自由席特急券での乗車可能な区画としても利用可能なだけである。なので、指定席券を保持しなければこの場所に留まるしかないのだ。
 国鉄車両のボックスのような内装。
 自分の中で、よそゆきの設備が何か心を書籍の中に導くようにして騒めく。
「コレは良い車両だ…!」
稚内駅での軽い記念撮影を終了し、そして乗車。列車は日付変わる寸前まで、札幌を目指しての走行に入った。さらば最北の町よ…!
 無事に間に合い、ほっと一安心。
 取り敢えずラウンジでどうしようか…

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